今回の記事は、クリスチャン初段?向けになるかもしれません。 ちょっとマジメな聖書のお話です。
オジさんのブログもそうだけれど、キリスト教関係のブログには良く聖書の言葉が貼ってあるのを見かけるよね。(今回は聖書の言葉の事を聖句って書くね。)
ブログに貼られている聖句、聖句だけの事もあれば聖書箇所も一緒に書いてあったり、時には聖書箇所だけの場合も有ります.......
聖書を確認する
気をつけて欲しいのは聖書箇所だけの時なんだ、オジさんみたいな聖書の自己流解釈のブログだったり、ちょっとスピ系の入ったブログの場合は特にね。
実際にその箇所を開いてみると、たまにどう読んだらこのブログの内容とこの聖句が繋がるの?って事があるからね。
また、聖句も聖書箇所も示さずに「〜って聖書に書かれているんです。」と聖句でなく自分の希望が聖書に書かれていると主張する人もいます。
例)「求めたら神様はなんでも与えてくださるって、聖書に書いてあるんです。」
もし、その教えを受け入れるつもりでいるのなら、キチンと聖書を開いて確認する様にしてください。
聖書の一部を切り取ると間違った理解になる
ブログ記事だと、どうしても聖句の一部分を紹介する事になってしまうけれど、聖句って一部分だけ抜き出して読むと、本来持つ意味と違う意味を持ってしまう事があるんですよ。
例えば 次の聖句 「求めよさらば与えられん」
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。マタイ7:7−8 新共同訳
この聖句は、信仰によって物質的なものが、与えられる、問題が解決すると言う教えに良く使われます。
しかし、その先を読み進むと
あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」マタイ7:11−12
「求めなさい、父なる神は、あなた方に必要なものは既にご存知だ、それなら求める者には良い物をくださるはずだ。だから ... 」となります。
私たちに必要な良いものとは何でしょうか、ここでは 救いです。
正しくは「神を求めなさい、そうすれば救いは与えられるだろう。」という意味なんです。何故なら続く13節には 有名な聖句
狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
と言う救いの門の話に繋がり、にせ預言者に気をつける 注意 警告 そして最後は、救われる人は岩の上に家を建てる賢い人のようだ と話は進みます。
この7章全体のテーマは救いについてであり「求めよさらば与えられん」この求めて与えられるものとは救いの事なのです。
物質的なものが与えられたり、問題が解決する事では無いのです。
文脈を読む
このように聖書箇所の前後も読んで理解する、これが聖書の文脈を読むって事です、 その他にも
どう言う話の流れで、その聖句が登場したのか?
どんな人が、どういった立場の人に言ったのか?
時代背景 当時の風習、人間関係などなど.....を含めて一つの聖句を理解する事が、その聖句が持つ本当の意味を理解するって事につながるのです。
教会で語られるその日の聖句は、それが部分的だったとしても、専門に学ばれてキチンと理解された牧師先生なり伝道師の方が話されているはずですから、たとえそれが本来の意味では無く適用だったとしても、大きな問題は無いと信じたいです。
ごく稀にズレた話をされる先生もいるので、出来るだけ文脈を確認される事をオジさんはオススメしますが....
個人的に示されるみ言葉
時に神様は、あなたの心に蓄えられた聖句をもって、あなたに語り掛けられる事があるでしょう。
たとえそれを、聖句が本来持つ意味とは違った受け取り方をしたとしても 、あなたと神様との関係が健全であれば、それはあなたと神様との関係の中で正しい意味をもつものと思います。但しそれは第三者には関係ないと言う事を心に留めておいて下さい。
それを元に新しい教えが生まれてはいけないのです。
その他の 誤解されている聖句
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、 わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もまたわたしとともに食事をする 黙示録 3:20
少し前から読んでみると、これはすでに救われている人への聖句だと分かります。「あなたも、心の戸を開いてイエス様を受け入れましょう」と言う使われ方で、まだ救われていない人への伝道に誤用されています。オジさんも昔、よく考えずに使っていました。
もうひとつご紹介します。
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです ヨハネ14:1~3
この箇所は死後の天国の事とされ、キリスト教のお葬式で良く読まれている箇所です。またこの聖句と、「天に宝を蓄える」と言う別の箇所を合わせて、『救われた人は天国に建設中の家が有って行いによって豪華な家が建つ。』と言うトンデモな教えや『これは携挙の事が書かれている』と言う話も聞いた事が有ります。
しかし14章と言う文脈の中で読むと、14節は、聖霊が与えられる事、16節は、弁護者としての聖霊、共にいる聖霊など、このヨハネ14章は聖霊について書かれている箇所で、該当の 1〜3節の「父の家にあるたくさんの住まい」とは、聖霊の住まいとなる神の宮の事です、そしてそれは私たちです。
(聖書全体の文脈で見た時に、神は私達を住まいとして共に住まわれると言う概念が見受けられます。)
つまり、「天の父にとって救われるべき人が沢山いる、その為に御子は十字架にかかるのです、それは聖霊としてあなたたちと共にいる為だ」と言う聖霊の内住について書かれているのです。
この14章は、天国の家や携挙にスポットを当てるのではなく、聖霊にピントを合わせて読まなくてはなりません。
今回のまとめ
聖書は、その箇所の文脈から、そして、それぞれの福音書や手紙(書簡)の持つ役割の文脈から、広くは新約、旧約と言う文脈から読む必要が有ります。
そして最終的には聖書全体の文脈つまり永遠に変わる事のない神の言葉として読まなくてはならないとオジさんは思うのです。
これら全てにおいて共通できる処に、正しい聖書理解があるのかもしれません。
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 Ⅱテモテ 3:16
この聖書とは、文脈的には旧約聖書の事ですが、現代の殆どの教会で新約聖書も含む事になってるみたいです。オジさんもそれを受け入れておりますが、心の何処かにホントにそれで良いのかと言う思いも有ります。
もしオジさんが、間違った使い方をしてる時は、遠慮なく注意して下さい。
これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この予言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。
ヨハネの黙示録 22章18~19 これも黙示録という文脈の中で理解しなければ.... だよ
最後まで読んでいただきありがとうございます。
補足
聖書アプリも良いけれど、前後を見渡しやすい点で、本の聖書も良いよ。
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