前回の記事の続きで異言のお話です。
異言とは、舌から発せられる声あるいは異国の言語(聞き慣れない言葉)を話すことで、いずれも、学んだことのない外国語もしくは意味不明の複雑な言語を操ることができる超自然的な言語知識、およびその現象を指す。異言 - Wikipedia
異言を「超自然的な言語」「霊的言語」と考える教えが出て来るまでは、「超自然的に話せる様になった外国語」と読むのが主流でした。
今回はそんな異言が、聖書の記述ではどの様に描かれているか見て行こうと思います。
この記事では、超自然的な言語の異言を「未知の(言語の)異言」もう一方を「外国語の異言」と呼び、どちらも指さない場合は異言とさせて頂きます。
異言に関する記述は、新約聖書の中で マルコによる福音書・使徒言行録・コリントの信徒への手紙第一の「3つの書」にしか登場しません。
マルコによる福音書「新しい言葉を語る」
マルコの福音書で異言の記述は一箇所のみですが、イエス様が宣教に派遣する前に弟子たちに語られた言葉です。
信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」マルコによる福音者16:17〜18
登場する5つの事柄のひとつ「新しい言葉を語る」が異言の事だと言われています。
「未知の異言」を主張される方は、聖霊の賜物として「未知の異言」「悪霊の追い出し」「病人の癒し」を認めますが、「蛇を掴む」「毒を飲んでも害を受けない」には余り触れません、この2つを除外する聖書からの根拠も示されません。
ここの文脈から読み取れるのは、この箇所は、後に使徒言行録で起こるペンテコステ(聖霊降臨)と、その後の使徒たちの働きを預言するイエス様の言葉と読めます。この箇所から「新しい言葉を語る」が「未知の異言」を示すとは言えないと思います。
使徒言行録での異言
クリスチャンには有名なペンテコステの出来事です。
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たれ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。使徒言行録2:1~4
「未知の異言」を強調するペンテコステ派の名前はここから来ています。しかしここで語られたのは「ほかの国々の言葉で話しだした」と書かれいるので「外国語の異言」です。
ペンテコステの日に起こった、最も素晴らしい出来事は何でしょうか?異言が与えられた事でしょうか?聖霊降臨と、それにより3000人余りの人がイエス・キリストへの信仰を持ったと言う宣教の結果の方が、神様から見たら素晴らしい事だと思います。
聖霊降臨は、使徒言行録の中で2章(ペンテコステ)で『ユダヤ人信者』に起こりました、その後8章でユダヤ人と異邦人との混血『サマリヤ人信者』に、そして、10章になると『異邦人信者』の順で起こりました。
サマリヤ人信者の例では、霊が与えられたのが、見える形で起こりましたが、それが「未知の異言」「外国語の異言」他の別の事なのかは、書かれてないので分かりません。
しかし それが怪しいものでは無く、神からの霊と確実に判別出来たのは「外国語の異言」だったからだと思います。
使徒言行録の中で聖霊降臨と異言の事件が次に起こったのは、10章のコルネリオという異邦人の家の出来事です。
割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。 異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、 「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。 使徒10:45~47
この時に起きた事は、「 異邦人が異言を話し、また神を賛美している」です。「わたしたちと同様に」とあるのでペンテコステの時と同じ事「ほかの国々の言葉で話しだした。」が起きたと考えられます。
彼らの賛美は、「神を賛美している」と解き明かし(通訳)の出来た「外国語の賛美」だったとも考えられます。文脈を無視して意図的に解釈しないと「未知の異言」とは成りません。
第3の事件は、パウロの第三次伝道旅行の時です。パウロはエペソで、既にクリスチャンだけど聖霊についての教えを、まだ受けていない人々に手を置いて祈りました。その時パウロの手がおかれた人々が、異言を話したり、預言をしたりした。 (使徒19:6)と書かれています。ここでの異言も、「預言をしたり」と有りますので、何を語っているのか理解する事が出来た「外国語の異言」で賛美したり、預言をしたりしたと考える事が可能です。この箇所からも異言が「未知の異言」と説明するのは難しいです。
どの例でも、それが神様から来た霊だと確実に判断出来るのは、何を語っているのか通訳、理解できる「外国語の異言」の方だと思います。
第1コリントの異言
聖書で最も多く異言について触れられているのが、コリントの信徒への手紙第一の14章です。コリントの教会は当時、トラブルが多かった教会です。異言はそのトラブルの原因の一つでした。第1コリントはそういう問題を解決するために書かれた手紙です。この異言の問題は、恐らく最初のこの手紙で解決したと思われます、第2コリントには異言という言葉は出てきません。第1コリント14章全般で、異言は好意的イメージには書かれていません。
試しに一度あなたの教会に外国人求道者が来たことを想像しながら、1コリントの14章の異言を外国語と置き換えて読んで見てください、きっと新しい発見がある筈です。
あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。第1コリント14:5〜6
「解釈するのでなければ」新改訳では「解き明かしをして」となっています。これは解き明かすこと(通訳)ができる異言ですから、普通に読めば「外国語の異言」です。
「未知の異言」と解釈したとしても、この箇所の意味、文脈は、「解釈出来なければ、何の役に立つでしょう。」です。「未知の異言」を用いる教会で、「解釈」「解き明かし」がされる事は殆どありません。
27節で「解釈」「解き明かし」を含む、異言を語る時のルールが与えられますが、「未知の異言」を用いる殆どの教会で、そのルールは無視されています。37節でパウロは、このルールは主の命令だと言っているのに守られていません。
自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者がいれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。第1コリント14:37
文脈から見ても、14章5〜6節は10節のパウロの言葉へと続きます。
世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。第1コリント14:10
この言葉からも、ここでパウロの語ってる異言は、外国の言葉と捉えるのが自然です。
わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。1コリント14:18
『異邦人の使徒』として召されたパウロは、異邦人伝道のために、多くの異邦人の言語である『外国語』を話せました。それは異邦人に福音を伝えるために必要なことだったからです。ユダヤ人だったので、ヘブライ語とアラム語ができました。 ローマの市民でもあったので、ラテン語もできました。ギリシャ語で新約聖書 にある手紙を書きました。(最低でも4ヶ国語は出来たようです)
パウロが18節で言いたいことは「いろんな国の言葉でイエス様の福音を宣べ伝えて、多くの異邦人をイエス様に導くことが出来て感謝します。」じゃ無いでしょうか。
異言は天使たちの言語
「未知の異言」では、異言を霊的言語と捉え1コリント13章「天使たちの異言」から、「天使たちが使う言語」だと主張する方がいらっしゃいます。「天使たちの異言」「天使たちの言語」は天使が 解き明かさなければ、理解する事が出来ない言語です。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。...1コリント13:1
この箇所の「天使たちの異言を語ろうとも」は、「たとえ」から始まっていますので、これは字義通りに読めば「たとえば」の話です。パウロは、コリントの信徒への手紙第二で天使たちの異言と思われる言葉に触れています。
彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。2コリント12:4
これを読む限り、「人が口にするのを許されない」言葉ですから、「天使たちの異言」は、人が口に出来る「未知の(言語の)異言」とは言えないでしょう。
イエス様の異言の祈り
聖霊が下って公生涯に入ったイエス様が「未知の異言」で祈られた記述を、聖書の中に見つける事は出来ません。イエス様は宣教の為に、ヘブライ語アラム語ギリシャ語を使われたでしょう、十字架での祈りはアラム語でした。聖霊によって与えられた異言は、イエス様の十字架による救いの真実性を証する為のしるしです、異邦人が福音を理解する為の異邦人の為のしるしです。
異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが...
1コリント14:22 信じていない者=異邦人
まとめ
オジさんが以前通っていたペンテコステ派の教会は、外国人のファミリーや留学生が多い教会でした、最大で8ヶ国の人たちで祈り会を捧げた事も有りましたが、異言の祈りで誰かの祈りを解き明かす事は有りませんでした。むしろ、通訳の奉仕をする方達を見て、通訳の賜物と呼ばれている、これ こそ異言の解き明かしの賜物では無いだろうか、そして日本語で説教する外国人宣教師こそ、聖書の言う異言の賜物を与えられているのでは無いだろうか、と思ったのです。
いくら勉強しても日常英会話さえ儘ならないオジさんから見れば、外国語を身に着ける事が出来たのは、その方の努力も当然有るでしょうが、神様から与えられた賜物(ギフト)としか言えません。
異言の賜物は、賛美の賜物、祈りの賜物、仕える賜物、歓迎の賜物、掃除の賜物、〇〇の賜物と同じ様な、外国語の賜物では無いでしょうか。
外国語のスキルのある皆さん、その異言の賜物で、驕る事なく宣教に励まれて下さい。
結び
忘れてならないのはどちらの異言でも、神様は現代でも与える事ができるお方であると言う事です。異言の賜物を受けた(であろう)オジさんには未知の言語の異言の祈りの可能性を完全に否定する事は出来ません。しかし聖書に書かれているルールが守られない限り、人前で異言で祈る事は無いでしょう。
また聖書を読む限りにおいては「未知の言語の異言」と言うより「外国語の異言」と読む方がごく自然に感じます。今まで信じていた教えを捨てることは、勇気が必要で困難を極めますが、その必要性も感じずにはいられません。祈りながら答えを求めている、迷えるオジさんです。
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おまけ
「未知の言語の異言」を強調する教派の聖会では「聖霊に酔いなさい」と語られる事があります。イザヤ28章は、預言と異言の賜物の用い方が乱れる時代の預言ではないかと感じるのはオジさんだけでしょうか?
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