クリおじさんの迷える聖書勉強

クリスチャンおじさんのブログです。 独学による聖書の学びや、信仰生活のアレコレ

死刑制度とクリスチャン

先日、知的障害者施設の入居者19人を殺害した被告に、死刑判決が言い渡されました。被告は反省の色は薄い様に感じますが、控訴はしないみたいです。

キリスト教は死刑制度に反対しているイメージがあると思います、実際に死刑制度に反対しているクリスチャンは多いと思います。社会は人道的にも、グローバルな傾向も、死刑制度の廃止の方向に動いています。

オジさんも(条件付で)死刑には反対ですが、死刑制度自体を、聖書が禁じているとは考えていません。

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聖書は死刑制度を否定していない?

次の聖句は、人の命を奪った賠償は命で償わなければならないと言っています。
あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は 人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。
創世記9: 5,6

律法は、終わったと考える立場の方々にとっても、これは律法ではなく、神様がノアの方舟のノア(人類代表)と結ばれた契約です、この契約は無条件契約に分類される有効期限の無い契約と言われていますので、死刑制度はノアの時代から現代に至るまで有効であると言えるでしょう。

律法による死刑の規定

オジさんは、旧約聖書の律法は現在でも人類全体に有効だと言う立場です。

神様がモーセを通して与えられた十戒には「殺してならない」と書かれています。

ここでの「殺す」のヘブライ語(לא תרצח)は「新実用聖書注解書」P213によると戦争で人を殺すことや、動物を殺す時には使用しない単語らしいです。

では罪の賠償としての死刑の場合は「殺してならない」はどうなるのでしょうか?十戒をより細かく書いた律法のレビ記20章には、死刑の規定が沢山、こと細かく書かれています。レビ記20章によると、浮気(姦淫)したら死刑だそうです。と言うわけで、聖書は死刑制度は禁止していないし、レビ記20章には、「殺されなければならない」(口語訳)と書かれています。

死刑になる基準は現代よりも厳しい「浮気するだけで死刑」といった内容です。

現代の文化や生活習慣にそぐわないから「律法は終わった」「現代には関係ない」とするのは、人間側の都合だとオジさんは考えています、永遠に変わらない神様の基準では、浮気でさえも、昔も今も変わらない死刑に値する罪だと言えると考えます。

では、裁判で裁いて死刑判決を言い渡す裁き司(さばきつかさ)は誰で、執行されるのは何時でしょうか?

新約聖書には何と書いてある?

旧約聖書での神様からの死刑命令は、神様の裁き、人による執行でしたが、新約聖書には、神様からの死刑命令はありません。

新約聖書では、神様の裁きに対する、イエス・キリストを信じる事による赦しです。これは裁き(死刑)が無くなったと言う事ではなく、赦しが備えられたと言う事です。罪が無くなったのでは無く、裁き(刑)が赦されたと言う事です。

エス様は言われました

人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。

マタイ7:1

パウロ旧約聖書を引用して、裁きは神様に任せる様に勧めています。

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。

ローマ12:19

これは、旧約聖書 申命記からの引用です。

わたしが報復し、報いをする
彼らの足がよろめく時まで。彼らの災いの日は近い。
彼らの終わりは速やかに来る。

新約聖書の全体の文脈では全体的に、罪を赦すことが勧められています。

マタイによる福音書6章の「主の祈り」の箇所です。

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。

マタイ6:14,15

あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」ルカ17:3,4

互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

エフェソ4:32

互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。

コロサイ3:13

罪を赦す事が勧められているのは、イエス・キリストを救い主と受け入れた私たちクリスチャンに対してです。

裁き司の為の祈り

被害者遺族感情を考えた時に、安易に死刑反対とは言えません、また、余りにも残虐な犯罪の場合は、赦す事より「死刑も仕方無し」と思ってしまう未熟なオジさんです。

反面、冤罪によって無実の人が死刑に処せられる事が起こり得るのも事実ですし、どんな犯罪人でも、愛しておられるのが聖書の神様です。

疑わしきは罰せずの日本の司法でも、裁くのは不完全な人間です、間違いを侵すこともあるでしょう。ですがその裁き司を立てられた(もしくは容認されている)のは、全てを益となされる神様です。パウロは後進のテモテへ宛てた手紙で、国の重要な立場の人の為に祈る様に勧めています。

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。

すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。

それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。

そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」

第一テモテ 2: 1~4

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。

ローマ 13: 1, 2

私たちクリスチャンは、人の手による裁きが正しく行われる様に「真実で正しい」裁き司の神様に祈り、裁きを神様に委ねるべきでは無いでしょうか?

個人の思いによる、個々の事案への「判決に対する活動」に異を唱えているわけでは有りません、自身の信仰による「神様の義と愛」に基づいて行動する自由意志を神様は尊重されます。

ただ、そこにキリスト教の肩書きを持ち出すのは、裁きを神様に委ねていない事になる様な気がいたします。死刑制度に対するクリスチャンの立場は様々ですし、個人の信念はキリスト教徒の代表とはなりません。聖書は死刑制度を否定していませんし、律法の有効無効に関わらず、神様の恵なしには、私達はみんな死刑に値する罪人です。裁きを神様に委ね、罪の赦しを得ない限り、私達に待ち構えているのは永遠の滅びではありませんか。

裁きをされる神様は、旧約聖書の時代から悪人の死を喜ぶお方ではありません。

わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。エゼキエル18:23

彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。エゼキエル33:11

悪人が罪から立ち帰る時に、それを喜び罪を赦されるお方です。

自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。 ヨハネ1:9

神様による死刑判決とは、

神様の正義に基づいて「神様の愛によって与えられた 赦し」を拒む人に対して、神様が愛によって泣く泣く認められた神様の正義に基づいた裁きです。

(お前が私を拒むなら、愛するが故にそれを認めようって事です。)

 まとめ

聖なる清い神様から見た時に、死刑囚も私達も等しく同じ、清く無い者です。違いは神様に立ち帰っているかいないかです。清められたか否かです。

そして神様は死刑囚を含む、どんな人に対しても、死の直前まで、神様に立ち帰る様に手を差し伸べられ、清めてあげたいと願われているのです。

この世界の裁判にも、そんな神様の正義が反映される様に、祈り委ねられる様な者になりたいと願う、未熟なオジさんです。

みこころの天になるごとく、 地にもなさせたまえ。 主の祈りより

あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。ヨハネ8:7

以下は、合わせてお読み頂きたい過去記事です

神様は、罪人も死の直前まで、神様に立ち帰る事を望まれている、と言う記事

 神様が備えられた、罪が赦される唯一の方法

律法は、現在も有効だと主張する記事 

義故に裁き、愛故に赦される。

愛故に赦し、義故に裁かれる。

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