国の緊急事態宣言の対象が全都道府県になり、教会でも各行事が自粛、礼拝にYouTubeなどを用いるインターネット配信を取り入れる教会が増えて来ました。
教会と訳されているギリシャ語 Εκκλησία (エクレシア)は、正しくは『集会』と訳されるべき(実際に集会と訳されている箇所もある)と言う見解があります。
オジさんは、集って礼拝する事に拘ってますが、礼拝のネット配信に反対ではありません。
むしろ風邪で礼拝に参加出来なかった事をきっかけに、複数カメラでのYouTube礼拝配信の環境を、5年前には当時所属の教会で提案、整えました。
ですから、現状のように止む得ない場合や、平時に様々な理由で集え無い方の為には、礼拝のネット配信は歓迎されるべき有効な手段だと考えています。
そんなオジさんですが、SNS上に見られるネット礼拝歓迎のムード中には❓と感じる事があります。今回は、そんなネット礼拝に対する個人的な思いです。
信徒 都合の良い教え
ネット礼拝では様々な教会の説教を聞く事が可能です、これは利点でもありますが、欠点でもあります。
自己流解釈のブログを書いているオジさんが言うのも何ですが、所属教会の教えと異なるメッセージを聞く事で、目が開かれる場合がある反面、自身の信仰に混乱や躓きを産む場合もあります。所属教会が定まっていない人を含めると、聖書に書かれている様な時代になる可能性もある事でしょう。
Ⅱテモテ4
人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。
オジさんが聖書の自己流の学びをしながらも、地域教会に所属し礼拝参加に拘るのは、歴史に担保されたキリスト教界の福音から、大きく外れる事が無いように気を付ける為です。
合わせてお読み下さい 第二テモテ4 章に関する記事
教職者 YouTuber
ネット配信をすると、リアルタイムでの視聴者数や、動画へのアクセス数を知る事が出来ます。これは励みにもなりますが、承認欲求の誘惑との戦いでもあります。
牧師や聖書教師、先生方も人の子です、アクセス数を上げる為にメッセージ内容が過激化したり、映えるパフォーマンス説教、ユーチューバー化する可能性があります。
実際に、オジさんがネット配信に関わった教会でも、その様な傾向に傾いた事がありました。
教会は、アクセス数によって価値の図られるYouTuberとは違います。
礼拝としての配信と宣教活動の為のYouTubeチャンネルは、分けて捉えるべきでしょう。
一信徒として、誘惑に晒される先生方の為に、これまでに増して祈る必要を感じています。
集っての礼拝 エクレシア
イエス様の名の下に集まる集会(エクレシア)それが聖書の言う教会(エクレシア)です。
マタイ18:19,20
はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
「それぞれの場所で心を一つにして祈りましょう」では無いのです。
外出自粛が叫ばれる中、 SNS上では、集う事に飢え渇きを覚える投稿も目にする様になりました。
全てを益となされる神様は、現在の様な時をも、私達が礼拝に対する姿勢を見つめ直す機会として用いて下さっている様に感じます。
ペンテコステ(聖霊降臨)以降は、私達自身が神の宮(神殿)なので、私達は時、場所に関係なくいつでも礼拝を捧げる事が出来るようになりました。
では、週毎の礼拝の意義とは何でしょうか?
合わせてお読み下さい オジさん流 日曜礼拝の意義
最後に使徒ペテロの手紙から
Ⅰペテロ4:7
万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい
終末が意識される今の時代 、医療関係者や世界のリーダー達の為の祈りなどは当然の事ながら、私達の信仰が守られる様に、そして信仰を導く先生方が誘惑から守られる様に、以前に増して覚えて祈りたいと思います。
今回に限らず、教会(場所)での礼拝(式)が出来なくなる事は、まま有るでしょう。
— 迷えるおじさん (@ChriOji) March 3, 2020
たとえ含む意味が違っても「礼拝は中止するべき」「仕方ない」との発言を見るのが辛い。
「神への礼拝を止めよ」😈と常に語りかけている者は誰でしょう?
礼拝は中止だか、礼拝はやめない🙏をセットでお願いしたい。