クリおじさんの迷える聖書勉強

クリスチャンおじさんのブログです。 独学による聖書の学びや、信仰生活のアレコレ

教会は何処へ? ヨハネの黙示録

世界の終末の患難時代に

教会は地上に存在するのでしょうか?

患難携挙説のオジさんは、どう考えているでしょう。

患難期携挙説では、患難期の前に教会は天に挙げられている(携挙されている)ので患難期には地上に教会は無いとされています。

その根拠のひとつに、黙示録の3章までは教会は登場するけれど、それ以降の患難期の記事には教会が登場して無い事をあげられます。

 

確かに、黙示録2章と3章に、神様から7つの教会への叱責と激励が書かれています。

そしてそれ以降、これらの教会は登場しません。

 

この7つの教会は、当時実際に存在した教会であると同時に、歴史上の各時代の教会を象徴する姿でもあり、現代の教会もどこかは何れかのタイプの特徴に当てはまるだろうと言われています。

黙示録 7つの教会

エフェソの教会 

初めの愛から離れてしまった教会(2:4)

スメルナの教会  

迫害の中で苦しむ教会(2:10)

ペルガモンの教会 

悔い改めが必要な教会(2:16)

ティアティラの教会 

女の偽預言者がいる教会(2:18〜)

サルディスの教会

眠っている教会(3:2)

フィラデルフィヤの教会 

忍耐を持ち耐え忍ぶ教会(3:10)

ラオディキヤの教会 

なまぬるい信仰の教会(3:16)

 (今回は止めますが、この辺り学んでみるのも面白いですよ) 

ところで

聖書で、教会と訳されているギリシャエクレシアἐκκλησία)は、中国経由で入って来た聖書を翻訳する際に教会と訳された単語で、実際には「召し出された者」「集められた者」「集会」等と訳した方が正しいと、近年では言われている単語です。

(〇〇集会とか〇〇召会と名乗られるキリスト教会もあります)

何故なら聖書の別な箇所『使徒言行録19章』のエフェソでの使徒パウロへの宗教裁判?のシーンでは、エクレシアἐκκλησία)は(反キリスト的立ち位置の)集会として登場するからです。

✝️ 使徒19章

32群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会ἐκκλησίαは混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかっ

35そこで、町の書記官が群衆ἐκκλησίαをなだめて言った。「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ。

40本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ弁解する理由はないからだ。」こう言って、書記官は集会ἐκκλησία)を解散させた。

 

と言うわけで『黙示録には、初めから終わりまで教会は登場しません。』と言う事ではありません。

 教会ἐκκλησίαは集団(集会)であることを心に留めて置いて下さい。

黙示録4章以降に教会ἐκκλησίαは登場しませんが、『聖なる者たち』と呼ばれる人達が登場します。

オジさんは4章以降に教会が登場しない理由は、患難に耐える神様への信仰も、神様の報い(ご褒美と裁き)も、教会と言う単位ではなく各個人の問題だからだと思うのです。

 

患難期携挙説では、この『聖なる者たち』は教会が地上に無くなった後に救われる聖霊の内住の無い)クリスチャンとしていますが、その様なことを示した聖書箇所を新約聖書、黙示録に見つける事が出来ませんでした。

(携挙有りきの解釈によって生まれた仮定の話だと言えるでしょう) 

✝️

巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、竪琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである(黙示録黙5:8)

 

香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った。(黙示録黙8:3)

捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。

剣で殺されるべき者は、剣で殺される。

ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。(黙示録黙13:10)

(他多数 黙示録黙14:12, 16:6, 17:6, 18:24, 19:8, 20:9)

不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ

見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。(黙示録黙22:11~22)

 

この聖なる者たち』、19章の8節で『輝く清い麻の衣』を着せられます。

✝️  黙示録19:6~8 

「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。
わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。
小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。
花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。
この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」
 
輝く清い麻の衣』は『聖なる者たちの正しい行い』ですから、『正しい行い』を着ている『花嫁』は『聖なる者たち』になる筈です。
(患難期携挙説では、『花嫁』は携挙された教会。『聖なる者たち』は患難期に救われた信者だと別な人たちとして解釈します。患難期に救われた『信者たちの正しい行い』を携挙された教会が着るとは???)
 
オジさんは『聖なる者』とは、私たち信者の事だと考えます。
(携挙が無い前提で?普通に読めば、普通にそうなると思うのですが...)
信者の集まりである教会は、キリストの花嫁に例えられますから花嫁』である『聖なる者たち』とは教会の事、患難時代に地上に教会は在ると言えるとオジさんは考えます。
 
 
そう言うわけでオジさんは、先に申した様に『患難に耐える神様への信仰も神の報いも、教会と言う単位ではなく各個人の問題だから』教会への賞賛と叱責が終わった、黙示録4章以降に教会が登場しないのだと思うのです。
最終的には、信者一人ひとりと神様との個人的関係なのです。
 
そして黙示録のフィナーレで『花嫁』である “聖霊が内住された”聖なる者たち』は言うのです。

✝️

 “霊”花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。
黙示録22:17
これを聞く者=信じる者=信者
終わりの日の為に、神様は飢え渇いている人を、今日も招いておられます
 
Marana tha マラナタ
主よ来てください。
 

特に明記無き場合、聖書の引用は新共同訳を使用しています。

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✝️ 参照聖書箇所 

エフェソ5:24~25 

教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。

夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。

マタイ6:9~10
天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、天におけるように地の上にも。

 

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