クリおじさんの迷える聖書勉強

クリスチャンおじさんのブログです。 独学による聖書の学びや、信仰生活のアレコレ

「ダニエル七十週の預言」患難期はホントに7年なの?

今回は、メインの聖書箇所以外は引用を載せませんので、お手元に聖書をご準備いただき確認しながらお読み下さい。この記事では、聖書は新共同訳を使用してます。) 

 

終末論を学ぶ時に、7年の患難期という言葉を聞いた事がありますか?

聖書は、世界の終わりは、大変な患難期を経て訪れると預言しています、しかし、その期間が7年とは、聖書の何処にも書かれていません。

黙示録に書かれている数字は、全て3年半を表しています。

「四十二か月の間」黙示録11:2 黙示録13:5  

「千二百六十日の間」黙示録11:3 黙示録12:6

「一時と二時と半時の間」黙示録12:14

この3年半が、前半と後半の2回訪れると解釈する事で、患難期が7年と言うようです。

確かに黙示録には2度、患難期の描写がされていますが、これは聖書に良く見られる文学的手法と考えられます。ひとつの記述の後、再度その記述に戻り情報を追加する(再記述)手法や、同じ事を別な角度、別の目線で立体的に表現する手法を採っていると理解する方が、聖書の書かれ方の法則からして正解だと思うのです。

複数の目線による聖書記述の一例

もう一度言います、7と言う数字が神学的に完全数と言われているので7年と解釈したくなる気持ちはわかりますが、患難期7年と言うのは解釈によって生まれた聖書理解であり、聖書の何処にも7年とは書かれていません。

では、何故その様に理解される様になったのでしょうか?

それは、イエス様が終末の事を語られたマタイ24章の『憎むべき破壊者』が登場する

ダニエル書9章の「ダニエル七十週の預言」などと呼ばれる箇所の聖書解釈によります。

マタイ24:15

預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ―― 

 

ダニエル書 9:24~27

24お前の民と聖なる都に対して
七十週が定められている。
それが過ぎると逆らいは終わり
罪は封じられ、不義は償われる。
とこしえの正義が到来し
幻と預言は封じられ
最も聖なる者に油が注がれる。
 
25これを知り、目覚めよ。
エルサレム復興と再建についての
御言葉が出されてから
油注がれた君の到来まで
七週あり、また、六十二週あって
危機のうちに広場と堀は再建される。
 
26その六十二週のあと油注がれた者は不当に断たれ
都と聖所は
次に来る指導者の民によって荒らされる。
その終わりには洪水があり
終わりまで戦いが続き
荒廃は避けられない。
 
27は一週の間、多くの者と同盟を固め
半週でいけにえと献げ物を廃止する。
憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。
そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。」

(新改訳では、「多くの者と堅い契約を結び」と訳している)

ギリシャ七十人訳聖書では翼を「神殿」と訳している  )

 

 ココから暫く読み飛ばしても大丈夫!

民数記14:34エゼキエル書4:6から、1日を1年、7日を7年、70週は490年と解釈します。 この490年の起点となる(25節)エルサレム復興と再建の命令(神殿の再建)を、紀元前何年からと捉えるかによってダニエル書9章の理解が分かれるところですが、ここではエズラ記7章の紀元前457年アルタクセルクセス王によって出された再建命令と考えます。(神殿再建命令は、複数回出されているので、どの再建命令の事と受け取るかで、解釈が異なってきます。9/23追記)

紀元前457年から7週(49年)エルサレム再建が行われました。紀元前408年です。

そこから、62週、(434年)経つと紀元27年になります。

(後の図を参照下さい。紀元後の元年は紀元0年では無く紀元1年なので27年の計算になります)

この紀元27年は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けて公生涯が始まった年です。

 

 この辺まで読み飛ばしても大丈夫!

 

 

つまり24節の「最も聖なる者に油が注がれる。というのは、イエス様が洗礼を受けたこと、

25節の「油注がれた君」というのもイエス様を指します。

26節の「六十二週のあと油注がれた者は不当に断たれは、イエス様の十字架を指します。

エス様はこの預言通りに洗礼を受けられ、十字架にかかられたのです。

ここまでは、患難期7年も3年半も大体同じ理解の様です。違うのは62週の最後の一週(7年)の解釈です。

ここからダニエル書 9:24~を確認しながらお読み下さい。

患難期7年の理解

(26節)次に来る指導者(反キリスト憎むべきものの民は、町と聖所とを滅ぼす。

(27節)(反キリスト憎むべきもの一週の間(患難期7年間)に多くの信者を得る。

(27節)(反キリスト憎むべきものはその週の半ば(3年半)に、神殿での生贄を廃止する。

(27節)(反キリスト荒廃をもたらすもの 神殿に座る

(27節)(反キリスト)は、破滅する。

62週の最後の一週(7年)が患難期だと考える。

 

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患難期3年半の理解

(27節)(キリスト)一週(公生涯から終末)に多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。(キリストの福音と救い)

(27節)(キリスト)が、その週の半ば(公生涯3年半)に十字架にかけられる事により犠牲と供え物の必要が無くなりました。

(27節)(キリスト)によって、生贄と献げ物は廃止される。

(27節)(反キリスト荒廃をもたらすもの 神殿に座る

(27節)定められた破滅最後の審判が荒廃の上に注がれる。

最後の一週の残り3年半が患難期だと考える。

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廃止する(新共同訳)やめさせる(新改訳)と訳されているギリシャαἴρωアヒロー)は「上げる」とも訳せます。27節はイエスの十字架の件が書かれていると考えられます。

 

過去主義の理解

ダニエル書のこの70週の預言は歴史的に終わった事と考える過去主義の立場では、残りの3年半後の出来事をキリスト教最初の殉教者ステファノの死と考えます。

(反キリスト荒廃をもたらすもをアンティオカス・エピファニスと考えます。

紀元前167年、ギリシャの支配者アンティオカス・エピファニスが、エルサレム神殿の全焼のいけにえの祭壇の上にゼウスのための祭壇を設置、神殿の祭壇で豚をいけにえとして捧げた歴史的出来事があります。(旧約外典マカバイ記) 

(27節)(アンティオカス・エピファニス)によって、ユダヤ教の生贄と献げ物は禁止された。(在位期間は紀元前175~紀元前163年ですが占領期間が7年かどうか、わかりませんでした。)

最も標準かつ無難な理解 12/11補足

このダニエル書9章の預言は、イエス様の時代では、既に成就した過去の事(ギリシャの支配)の預言と言う認識だったが、イエス様はマタイ24章で、のちに実際に起こる事(ローマの支配)の預言として引用している。(私達から見た過去)

但し、(私達から見た未来)まだ起こっていない、これから起こる事の預言(終末預言)を含む可能性を否定するものでは無い。(聖書の歴史は歴史は繰り返す的な...)

 

12/11補足ココまで

 

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7/23 補足
7年説では、起点となる再建命令を紀元前457年以外の年の再建命令だと主張する事で、前半の3年半は公生涯では無くなり、患難期前半の3年半の事だと主張されている様です。

26節の その六十二週のあと油注がれた者は不当に断たれ から公生涯と捉える方が自然だとオジさんは思うのですが。 

11/4補足

患難期は3年半と考えるオジさんですが、ぶっちゃけ最後の一週の残り3年半が患難期と言う考えは、残りの期間を2000年以上ブッ飛ばすと言う勝手な解釈と言う点では、艱難期7年と変わりません。(^_^;) それよりも、黙示録に書かれている数字は3年半を表している事、7年とは何処にも書かれていない事が重要だと考えます。

補足 ここまで

まとめ

旧約聖書には、イエス様による人類救済計画を預言したと言われるメシア預言が300以上書かれていると言われています。

ダニエル9章のこの預言も、イエス様の洗礼から十字架に至るまでの公生涯を預言したメシア預言と捉える方が、聖書に書かれていない7年の患難期の根拠とするより聖書の法則に合う解釈と なるのではないでしょうか?

患難期を7年とする立場の方は、黙示録の13章の(反キリスト)が、神殿での生贄を再興し、多くの信者を獲得し偶像を礼拝をさせるが、最終的には生贄をやめさせると主張されます。

イスラエルと7年契約を結ぶが3年半後に裏切り生贄をやめさせるらしい7/2追記)

しかし

 黙示録の中に反キリストによる神殿での生贄の再興も、それを止めさせる箇所見つける事は出来ません。

確認出来たのは、反キリストとその像が礼拝され、聖徒たちは患難にあうと言う事です。

ダニエル書9章をメシア預言では無く終末の患難期の預言として読んでしまうと、黙示録に書かれていない事が終末の時代に起こると信じる、不確実な聖書理解に達してしまいます。

今回オジさんが皆さんに考えて頂きたい事は、

「27節のは、反キリストなのかエスなのか?」と言う事です。

下手するとエス様の事を反キリスト呼ばわりしている事になるんです。(逆もまた然り)

患難期が3年か7年かは、聖書の解釈のひとつであり、どちらが正解とは、無学なオジさんには言い切れません。

信者は患難期を経験すると言う立場(患難期後携挙)のオジさん的には、短い期間の3年半の患難であって欲しいと願いたいところです。

その3年半の患難でさえ、耐えられるかどうか不安なのですが.... 患難に耐える事のできる信仰を身に着ける者と成るようにと、日々聖書を学ぶオジさんです。

 
最後までお読みいただきありがとうございます。

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