クリおじさんの迷える聖書勉強

クリスチャンおじさんのブログです。 独学による聖書の学びや、信仰生活のアレコレ

携挙(ラプチャー)と聖書

皆さんは、携挙(けいきょ)と言う言葉を聞いた事が有りますか?

携え挙げられると書くこの言葉は、世界の終わりの時に神様が天から来られ、クリスチャン達が天に挙げられる事象を言うのですが、聖書には登場しない言葉で来臨や再臨と書かれている時に起こると信じられている事のひとつです。

そのタイミングは、聖書理解(神学)の違いによっていくつか考えられます。

聖書には、この世界の終わりには非常に堪え難い艱難(かんなん)時代があり、その後(千年王国と)永遠に続く神様の治める時代が訪れると書かれています。(千年王国を認めない聖書理解も有ります。)

携挙は、そのタイミングを艱難期の前と考える艱難期携挙説途中と考える「艱難期中携挙説」艱難期の終わりと考える艱難期携挙説に分かれます。現在クリスチャンの間で携挙(ラプチャーと言う単語を用いる方の多くは「艱難期前携挙説」の立場の人達です。

「前携挙説」は、世界の終わりの艱難を『真のクリスチャンだけは経験しない』と言う一種の選民思想的な神学になります。

この記事では「前携挙説」「後携挙説」とさせて頂き「中携挙説」「前携挙説」の亜種として「前携挙説」に含ませて頂きます。

先に申し上げて置くと、オジさんは、この記事を書いている時点では「艱難期後(千年王国前)携挙説」の立場になります。ですから「後携挙説」の立場から携挙についてお話したいと思います。 

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終末論を教えない教会は、携挙を否定しているのか?

「前携挙説」を教える立場の先生方は別として、残念な事に「前携挙説」の立場の信徒さんの多くは、他の説との比較や検証をする事なく、異なるの立場の人たちを否定している様にお見受け致します。例えば、「携挙(ラプチャー終末論を教えない教会は駄目な教会だ」と言われる事がありますが、これは不確かな教えを教えるよりも、「終末の時代が来る事を前提に、それに備えた信仰の成長に重きを置いた教え」を説いている為であり、終末の訪れや携挙を否定している訳ではありません。終末論には様々な解釈が有り、絶対的真理と言い切れる終末論は有りません。確かに、黙示録を歴史的に終わった出来事とする過去主義万人救済説の立場に立ち、敢えて終末論に触れない教会もありますが、殆どの教会は世界の終末を否定してはいないと思います。

艱難期前携挙説の歴史

聖書が書かれて後2000年近くの歴史から見ると、「前携挙説」の教えは新しく、まだ190年程度の歴史しか有りません。(3世紀頃にも似た様な思想はあった様ですが、異端扱いだった様です)現代の「前携挙説」の教えは、1830年ごろに聖書からではなくマーガレット・マクドナルドと言うスコットランドの少女が見た夢から始まります。それはイギリスの神学者ジョン・ネルソン・ダービー等によって神学となり、ダービーの影響を受けたブラザレン派(〇〇集会と言う群れもブラザレンの流れです)によって広まりました。近年オジさんの周囲では、ディスペーション神学の教えに立つ宣教活動(ハーベストタイムミニストリー等)によって「前携挙説」は一般的な教えになりつつある様に感じます。

ブラザレン派、ディスペーション神学の信者は「前携挙説」ですが、全ての「前携挙説」信者がブラザレン派、ディスペーション神学の教えを全て受け入れているわけでは有りません。このことから都合の良い部分のみを受け入れている不確かな「前携挙説」の存在を感じる事があります。

「前携挙説」を教える立場の先生方は「前携挙説」に確信を持って教えられていますが、公の場では神学の一つであると言う域を超えない様に気を配られています。一部の「前携挙説」を極端に信望する方が暴走して、神学の一つと言う域を超えてしまい、一種の選民意識を持ち他者を否定している姿を見るのは、同じクリスチャンとしては残念な気持ちになります。 

聖書にはなんと書かれているか?

聖書からハッキリと読み取れることは、「艱難時代がある、その後永遠の神様の統治時代が来る」「余計な事に執われる事なく、信仰の成長と宣教に励みなさい」と言うことです。

「前携挙説」の根拠となる聖書箇所を確認しても、あくまでも艱難時代に教会が携挙される(されている)とも考えられる箇所であって、携挙される(されている)と証明(断言)できる箇所ではありません、それは「後携挙説」と理解しても問題なく読める内容ばかりです。「後携挙説」とも考えられるのです。

だから未だに、この問題の解決を見ないのです...

むしろ以下の聖書箇所からは「後携挙説」の方が説得力のある様に思えるのですが、皆さんは如何思われるでしょうか?(聖書は新共同訳です)

エス様による、たとえ話です。

主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』マタイ13:29-30

エス様は良い麦(クリスチャン)と毒麦(異端の教えor不信者)は終わりの時まで一緒にしておきなさいと例えられました。先に良い麦(クリスチャン)だけ抜くとは言われていません。

次は終末の話の文脈からのイエス様の言葉です。

「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。 それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」マタ24:32−35

文脈を見ると「これらすべてのこと」とは患難期終盤の出来事を含む、艱難期全体の事を指しています。「これらすべてのこと」を見ないで先に天に挙げられる事があるでしょうか?

あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。マタイ28:20

エス様は、(内住の聖霊として)世の終わりまで共にいるから安心して宣教に励みなさいと言われています。その前に一部の人を天に挙げるとは言っていません。「挙げられる人も挙げられ無い人とも共にいると言えるのでは?」と解釈するのは拡大解釈では無いでしょうか?

エス様が十字架に掛けられる直前の、ゲッセマネでの祈りでは、イエス様は携挙ではなく、信者が守られる様にと祈られました。

わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。

ここでの「守って」という言葉は、原語の聖書(ギリシャ語)では黙示録 3:10 の「試練の時に、わたしもあなたを守ろう。」の守ると同じものだそうです。

エス様は天に帰えられる前に、弟子たちに時期を知る事よりも宣教だと言われます。

さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。使徒1:6~14

使徒ペテロの神殿での説教です。

このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。使徒 3:21

使徒ペテロは、万物が新しくなる時まで、イエス様は天にとどまると言っています、しかも必ずと強調しています、途中で一回降りてくるとは言っていません。

使徒ペテロによる、終末時代の信徒の振る舞いです 

 万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。1ペテロ4:7

使徒パウロは終末時代を含む、良い時でも悪い時でも、不健全な教えが広まる時でも、その中で励まし合いながら福音の宣教をする事を勧めています。

御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。 だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。  しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。Ⅱテモテ4:2〜5

 パウロの書簡1テサロニケ3を読むと、使徒パウロにとっての苦難とは、回避できない運命であり信者同士の交わりによって乗り切れるものだと考えてるみたいです。

3節このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。

4節 あなたがたのもとにいたとき、わたしたちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実そのとおりになりました。 

7節 それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。

ここでの苦難は、イエス様の言われたマタイ24章の艱難時代の苦難と同じギリシャ語の単語  θλῖψις が使われているそうです。

そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。マタイ24:21
 
聖書全体の文脈を見るときに、聖書の神様は私達と共に住み、艱難の只中で私達を守り、励まされる神様です。以下はその事に触れた記事になります。

まとめ

終末論は諸説あり 携挙(ラプチャー「艱難期前携挙説」は、そのひとつでしかありません。終末論は、艱難に耐えるキリストへの信仰を学んだ上で、一人ひとりが聖霊に導かれ聖書を確認した上で、信仰によって信じ受け入れるものでは無いでしょうか?

終末論自体は、救いとは直接は関係が無い筈です。

終末論に限らず、聖書に明記されていない解釈は、パウロの語る「都合の良い作り話」の可能性がある事を忘れてはいけません。

キリストの救い(福音)とは艱難から救われる事ではありません。宣教(伝道)に置いて十字架による福音より先に、不確かな終末論が語られるべきではありません。たとえ既に救われていて、キリストを信じるきっかけが「前携挙説」だったとしても、福音の学び、艱難に耐えるキリストへの信仰、終末に備える信仰の成長を怠ってはいけないと思います。

「後携挙説」の立場のオジさんが、この記事を書いた理由のひとつは「前携挙説」に立つ人達が、終末時代に起こる迫害への備えを、自分達には関係ないものとして軽んじている様に見え、携挙が無いままに艱難時代に突入してしまった場合の事を心配するからです。

専門的な学びをしていないオジさんなりの、どうなの「前携挙説」の記事でした。

「前携挙説」にこだわる余りに、誤解して聖書を読んでしまっている一例を紹介した記事です。合わせてお読みください。 

7/2 追加編集(下の紹介記事の該当箇所の抜粋記事です)

 

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