クリおじさんの迷える聖書勉強

クリスチャンおじさんのブログです。 独学による聖書の学びや、信仰生活のアレコレ

でもホンマはあかんねんで! 律法って守らなくていいの?

オジさんは現在の処、過去記事全体を通して律法は『現代でも有効』の立場を表明しております。

前回は、オジさんの聖書観を元に記事を書きました。今回はそれを色んな聖書箇所から見て行こうと思います。

この記事は、前の記事の続編です。

オジさんは神学校等に通った事が無いので、専門的な知識は持っていません。その為、一部の方には突っ込み処満載な内容かと思います。

もし異論がある場合は前記事を読んで頂き、どの様な思いから今回の様な理解に達したのかをお分かり頂けないと、理詰めだけで現在の私の理解を変えるのは難しいだろうと言う事をご理解下さい。知識として受け止める度量はあるつもりですが...

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律法は終わったのでしょうか?

先ず、律法が終わったとするなら、それはどの時点からに成るのでしょう?

エス様の御降誕

公生涯の何処か

十字架での死、復活

エス様の昇天

 

エス様は公生涯の中で次の様に語られました。(山上の垂訓)

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。

マタイによる福音書5章18〜8

律法や預言者旧約聖書)は廃止されていない。

律法の文字から一点一画も消え去ることはない。

文脈から見て、これは群衆では無く、おそらく弟子たちに向けて語られた言葉です。

弟子たちはイスラエル人ですが、果たしてイスラエル人の代表でしょうか?

(全員がイスラエル人では無かったとの説もあるようです)

ここでイスラエル人の代表と解釈し、我々異邦人には関係のない言葉としてしまうと、弟子達に語られた他の聖書箇所に色んな影響が出てくる様な気がするのですが...。

 

最後の晩餐の席で弟子たちに言われました。

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたし(神)があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

ヨハネによる福音書1334

この箇所の 新しい掟を与える。から古い掟は終わったと主張される方もいます。

オジさんは、互いに愛し合うことで、律法を全うしなさいとの理解に至りました。

この箇所の理解については過去記事にまとめてありますので、そちらをご一読下さい。

chrioji.hatenablog.com

十字架の上で語られた最後の言葉 τέλειος

テテレスタイ「成し遂げられた」で律法は終わった?

エスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。ヨハネによる福音書19:30

新共同訳では「成し遂げられた」と訳されていますが、ギリシャ語の テテレスタイの訳にはいくつかあり、どの訳に重点を置くかによって読み方が異なってきます。

終了した

これが一番、律法が終わったの根拠に成る訳ですね。十字架の現場でこれを聞いた弟子は思ったかもしれません。「あーもうお終いだー(絶望)」と、公生涯を終了したとも読めます。

完了した

テテレスタイはギリシャ語の動詞の完了形だそうです。「完了している、無期限にそうである」「救いの御業は、永遠に完了している」と言うところでしょうか。「成し遂げられた」の訳はこの部類になるのかな?

完済した

この聖書箇所のテテレスタイはギリシャ語の動詞で、商業用語の「完済した」「支払いは終わってる」の意味もあるそうです。

唯ひとり罪の奴隷でないイエス様だけが、罪の奴隷である私たちを買い取る事が出来、罪から自由にして下さる。とも解釈出来るらしいです。

オジさんはコレが一番好きです。

いずれにせよ、テテレスタイから律法が終わったと考えるのは少々厳しいのではないでしょうか。

復活されたイエス様は、エマオへ向かう二人の弟子に、旧約聖書全体の話をされました。

モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。ルカによる福音書24:27 (その内容を知りたいっ!!

 

新約聖書で、『神の言葉』『神の掟』『聖書』『律法と預言者と書かれている場合、それは律法(旧約聖書)を差します。否定的な意味で『律法』と書かれている場合などは、間違った受け取り方をされていた「口伝律法」と考えられます。ご都合主義と思われるかもしれませんが、なんかそうらしいです。(このブログは、初歩的理解の方を対象としていますので、モーセ五書、旧約全体を一括りにしてます。練達な意見交換は、他の場所にてお願い致します。)

律法はイスラエル人だけに与えられたものでしょうか?

以下は、異邦人の多い教会宛の手紙です。

ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」ローマ9:6〜8

従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり使徒預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身でありキリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 エフェソ2:19

私たちはキリストにあって神の家族です。神の家の家訓は子供達は守らねければなりません。神の家に嫁いだ花嫁も神の家の家訓に従わなくてはいけません(聖書が書かれた時代の家制度からの視点ですが....) 

だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。コロサイ 2:16

ここから律法は、異邦人には適用されないと考える方もいらっしゃいます。ここで批評しているのは誰でしょうか?異邦人のクリスチャンも祭や安息日を守っていました。律法に書かれているこれらを禁止しているのは、当時イスラエルを支配していたローマ帝国です。このコロサイ2章は、律法を守らなくても良いと言ってるのでは無く、律法を守ることを誰にも(ローマ帝国にも)とやかく言われるな。と言っているのです。

 

割礼の問題、使徒の働き15章のエルサレム会議はどうでしょうか

ユダヤ教ナザレ派のコミュニティー中に異教の文化で育った異邦人が入って来ました。(当時のイエス信者は、いくつかあるユダヤ教の一派として認識されていました。)

例えば、貴方の教会が異言の祈りをする教会で、救われているなら異言は与えられる筈だとの立場の教団だとします、そこに他教団から異言の与えられてないクリスチャンが転会して来ました、貴方の教会はどうするでしょか?『アナタは、まだ救われてない!』と糾弾しますか?『異言が与えられるに越したことはないけど、取り敢えずは与えられてなくても大丈夫ですよ、与えられるように祈りましょう。』と、なりませんか?例えば貴方の教会では洗礼が、全浸礼... 聖餐は...

つまり、関係がないのでは無く、守るに越したことはないが、救いとは直接は関係が無いし。余りこだわり過ぎると以前の律法主義のユダヤ教になってしまうし、まぁ文化的に困難な場合は仕方がないか、でもホンマはあかんねんで!と言うことだと思うのです。(ちょっと強引ですか??割礼に関しては心に受ければOKと思ってますが...)

旧約聖書では

旧約聖書時代、出エジプト荒野の旅の途中では、異国人や寄留者にも律法を守る事を命じています。ヨナは異邦人の国ニネベに神の言葉(律法)を伝えるように神様に命じられました。神様は、旧約聖書の時代からイスラエル異邦人関係なく神の言葉を守るように命じられているのです。(聖書箇所はご自分でご確認下さい)

 とは言え、オジさんは安息日を守れていません。昨今、異教の神事が起源だと騒がれ出したクリスマスやイースターを祝うくせに聖書の神様の命じた過越や仮庵の例大祭を祝っていません。しかしホンマはあかんのです。本当は守ってくれる事を神様は望まれているとオジさんは思ってます。

何故なら、主が再臨された後、イスラエル異邦人関係なく仮庵の祭りを祝う様になるからです。

ゼカリヤの預言とヨハネの黙示

エルサレムを攻めたあらゆる国から残りの者が皆、年ごとに上って来万軍の主なる王を礼拝し、仮庵祭を祝う ゼカリヤ14:16

諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。黙示録21:24,25 新約聖書の時代、諸国の民が都に登るのは祭りの時でした。)

 

神様は永遠に変わらない絶対的な存在で、聖書はその神の言葉だと言う前提に立てば、もっと多くの聖書箇所から、律法は『現代でも有効』だと多少強引に主張することが出来そうですが、なんか大変そうなのでやめときます。

皆さんは、どの様な前提に立って、どの様に聖書をお読みになっていますか?

聖書は、神様が在ると言う前提で読まなければ、理解不能で意味の無い書物です。

あなたにとってその神様とはどの様な存在ですか?

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この記事を書いてる途中で、オジさんが言いたい事を上手くまとめてくれているブログを見つけました。これなんですよ前記事からオジさんが言いたかった事は。

物足りない方、この方の記事もオススメです。

ブログ主が現代にも適用出来ると書かれているところが、オジさんの言うところの新しい掟を通して見ると同じ感じかなぁ。。。

mushimorix.hatenablog.com

 

本日の〆 詩篇の最初の詩

詩篇1篇 1〜3 口語訳

悪しき者のはかりごとに歩まず、
罪びとの道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
このような人は主のおきてをよろこび、
昼も夜もそのおきてを思う。
このような人は流れのほとりに植えられた木の
時が来ると実を結び、
その葉もしぼまないように、
そのなすところは皆栄える。