クリおじさんの迷える聖書勉強

クリスチャンおじさんのブログです。 独学による聖書の学びや、信仰生活のアレコレ

律法主義者がとぉ〜りま〜す。 えっ律法終わったの?

困ったもので、キリスト教には色々な教派や考え方があります。公同の教会の件は、今回は置いときます。

モーセの律法(神様がイスラエル人に与える為にモーセに語られた戒めと掟)にも、様々な考え方や意見があります。

  • 律法は、現代人には関係ない。(律法は終わった)
  • エス様が福音書で説明された所は有効、他は無効。(部分的に有効)
  • 律法は、現代でも有効。(律法は永遠)
  • 現代でもイスラエル人には関係あるが異邦人には関係ない。イスラエル人にのみ与えられている)

もしかしたら、他にも沢山の立場があるかも知れません。あなたの教会、また あなた自身はどの様にお考えでしょうか?

(このブログは、初歩的理解の方を対象としていますので、十戒、律法、旧約全体を一括りにさせて頂きます。練達な意見交換は、他の場所にてお願い致します。)

f:id:chrioji:20200211231713j:plain 映画十戒より

律法(旧約聖書)をどう捉えるかは、キリスト教の聖書理解において非常に重要なことだと思います。何故ならイエス・キリストの教えの殆どが旧約聖書からの引用であり、弟子達の書簡(手紙)も旧約聖書からの引用がとても多いからです。

オジさんは現在の処、過去記事全体を通して『現代でも有効』の立場を表明しております。以前はエス様が福音書で説明された所は有効、他は考えたことが無いの立場でした。

もちろん専門的知識の無いオジさんには理解出来ない様な、高い次元での反証もあるとは思いますが、これを機会に読者の皆さんが、ご自分がどの位置に立って聖書を読んでいるのか、また他の意見も知って見ようと考えるきっかけになって欲しいと言う思いを込め、今回はオジさんが、『現代でも有効』思いたい理由を書かせて頂きます。

理由は至ってシンプルです。それはオジさんにとって

神様は永遠に変わらない絶対的な存在でなければならなくて、聖書はその神様の言葉だと信じているからです。

ここで、「神だって間違えるさ」「聖書は人間が書いたものだし」と考える時、別の聖書解釈が生まれるのです。(そう言う意見があるのも存じております由)

オジさんは、聖書を神様の言葉と信じないで、どうやって私たちは神様の声を聞き、神様の思いを知ることが出来るのだろう?と考えるのです。

心に降りて来た声を、「神は言われるー」と言って神の言葉とするなら、それ多分怪しい宗教です。

聖書に間違いがある場合、私たちは絶えず疑いながら、神の言葉を聞く事になります。

神様が一度決めたルールを途中で変える方なら、今後いつ心変わりするかも知れない神様を、どうして心から信頼出来るでしょうか?

神様の言葉の、ここは有効、こっちは無効と人が決めて良いものでしょうか?

エス様ご自身が、旧約聖書は自分について書かれていると言われています。それは、メシア預言の事だけでしょうか?オジさんは律法も預言書も含まれていると思います。旧約聖書は、イエス様そのものだと信じているのです。

エス様は旧約と新約で変わられたのでしょうか?古いイエス様は終わられたのでしょうか?

私たちはイエス・キリストにあって神の家族です。神の家の家訓は、長男と次男、子供ごとに違う家訓が与えられてるのでしょうか?神の家に嫁いだ花嫁は、その家の家訓に従わなくても良いのでしょうか?(聖書時代の家制度からの視点ですが、神様は変らないお方なので...。現代への適用は先に述べております。)

 

律法は当時のイスラエル人たちにとっては、『現代の法律』の様なものでした。信仰心に関係なく守るべきものでした。十戒憲法の様な位置付けになるのかもしれません。

エス様は、律法(旧約聖書)を政治的に読んでいたファリサイ派サドカイ派、学問的に読んでいた律法学者らに対し、また低い身分の低い人たちへ、神様の視点 神様の愛を通して理解することを教え説かれたのだと思います。それは部分的なものではなく律法全体だったはずです。当時の一般の人達は驚いた事でしょう。

エスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

マタイ7:28,29 新共同訳

 

〆に甘党のオジさんが大好きな詩篇の御言葉です。

詩篇19篇 7〜11

主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。

主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。

主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。

これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。

あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。これらを守れば、大いなる報いがある。

これを適用でしか受け取れない。終わったものだ。自分には関係ない。とするのは余りにも寂し過ぎやしませんか。

律法には現代にはとてもそぐわない事も書かれています。現実的には守る事が不可能と思える事も書かれています。しかしエス様が与えてくれた新しい掟を通して見る時に、決して難しいものではなく守ることが可能な『現代でも有効』な掟になると思います。

神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。

ヨハネの第一の手紙 5章 

わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。申命記30章11

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたし(神)があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 ヨハネによる福音書13:34 この新しい掟を与える。を理由に、旧約の掟は終わったと言われる方もいらっしゃいますが、オジさんはこの2つに基づいて旧約聖書律法と預言書は書かれていると考えるのです。

神さま大好き💖ですか? 神様を愛するって。。。 - クリおじさんの迷える聖書勉強

罪の無くなった世界 来たるべき主の日には、不要となる戒めの他は、掟の全てが無理なく守られる世界になると期待します。

今回は、オジさんの聖書観、神様観、イエス様観からなるべくシンプルに思いを書いたつもりです。次回は、それを色んな聖書箇所から見てみようと思います。

今日も最後までお読みいただき有り難うございます。

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