前記事 からお読みください
前記事が思ったより長くなってしまったので、書き残した事を分けました。
書き残した事とは、自分語りです。
キリスト教では証(あかし)などと言ったりしますが、クリスチャンで無い方には、「何言ってんだコイツ」的話になるのが、この証ってヤツです。
ご興味無いでしょうが、「何言ってんだコイツ」と思いながら、お付き合い頂ければ幸いです。
わたくし信仰生活を離れていた時期(放蕩時代)が長期間ございました。
(産まれた子が成人する程です)
今思えば、その間に神様に戻るチャンスは何度かございました、
そしてその度に、「戻らない」って方を選択し続けてきたのです。
時には、ハッキリとした意志で、時には無意識にね。
教会を離れた最初の数年間は、何か劇的な(霊的)体験をして教会に戻る事を期待しておりましたが、そんな事はナーンにも起こらず。
そうこうしているうちに時は流れ20数年。
流石に20年以上も放蕩時代が続くと、自分から教会に行こうなーんて考えは皆無です、信仰って何?それ美味しいの?の状態になります。
わたくしの中で信仰を持つことが、有り得ない状態になって更に数年後、
何の因果か、わたくしの思いに反して不思議と教会に行く状況になりやした、
その行ってしまった教会で、
わたくしにとっては偶然、神様にとっては必然の、
後に、その教会に通う様なる体験をしてしまったのです。
そこまでの過程の何処かで、私はようやく無自覚の内に「神さま、命、祝福」を選択出来たのです。
今では、神様が愛と憐れみを持って根気強く「私を選びなさい」と言い続けて下さったお陰だと思うようになりました。
イエスさまを救い主として受け入れ、救われたと確信するには、更に数年を要するのですが、それはまた別の機会があれば書きたいと思います。
周りのクリスチャンの中には「放蕩期間はあなたに必要だったから神様が与えて下さったのだ。」と兄弟愛から優しく言って下さいました。
申し訳ないが、私はそうは思っていません。
何故ならば
教会を離れる際に、『不満や不信感を持ったままでも留まる』という選択肢が、確かに有りました。
もしあの時、〜だったら〜していればのタラレバ話をしても仕方ないのですが、「神様では無い方」を選んだ可能性は限りなく高いと思います。
同期のクリスチャンの中には、とうの昔に牧師や伝道師となり活躍している方も居るのに、クリスチャンホームと言う恵まれた環境に産まれながら、随分と遠回りした私です。
神様は、全ての人に等しく、諦める事なく『私を選びなさい』と選択する機会を与えて下さる筈です。
それは「子供のころ教会に通ったことがある」「大学がミッションスクールだった」過去の思い出「同僚がクリスチャンだ」「キリスト教に興味がある」「絶望した」などの今の状況から、様々な形で訪れることでしょう。
クリスチャンホームに産まれながら現在は信仰を捨てている方、一度は信仰を持ったが様々な理由で教会から離れている方。
いづれ何処かの時点で、「神さまの方」を選ぶことが出来ますように心から願い、お祈り致します。
たとえ分からずに「でない方」を選択をしても、神様はその選択結果さえも救いに繋がる様に用いられます。
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
ローマ8:28 新共同訳
そう言うクリおじは、未だに「でない方」を選んで遠回りしています。
反省と悔い改めの日々です。
その回数が少しでも減る様に、神様に育てて貰ってる毎日です。
わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
Ⅰコリント3:6 新共同訳
あ〜文才が欲しい!