神様は、レビ記において
週の7日目(土曜日)を安息日で聖なる日とする様に命じられました。
月の7番目「ティシュレーの月」も聖なる月だとされました。
同様に年の7番目も聖なる安息の年とされました。
そしてこの安息の年を7回迎えた年の翌年、7年の7倍、49年に一度やってくる新年つまり50年目を
ヨベルの年と呼ぶ解放の年 聖なる年とされました。
プロテスタントではあまり重要視されない「聖なる年」ですが、カトリック教会には、50年ではなく25年ごとに「聖年」と言うものがあるそうです。
(2021年1月補足:50年周期と言う方もいますが、オジさんは49年周期が正解だと思っています。 )
ヨベルの年
レビ記25章8〜17 抜粋
ヨベルの年の基本理念は元の状態への回復です、農地を休ませる安息の年であり、全ての負債がチャラにされ、奴隷は解放され家族の元に帰る事が許されました。
赦しと解放と自由、50年に1度の喜びの大恩赦の年です。
次のヨベルの年はいつ?
ヨベルの年は、秋の最初の祭り「ラッパの祭り」と共に始まります。
先に上げたレビ記25章8〜17にはヨベルの年の規定が書かれていますが、バビロン捕囚以前に「ヨベルの年」(恩赦や休耕など)が行われた聖書の記述や、歴史的資料の記録が無い為に正確な年は分からないそうです。
現代の安息年やヨベルの年は、大昔のユダヤ教のラビたちの聖書研究に基づいた天地創造の年(ユダヤ暦元年)から数えた年が採用されている のですが、それさえもバビロン暦を基に、何回か改良されているとも言われています。
バビロン捕囚の期間は数えない(計算に入れない)など
つまり、端的に言うと...
正確には、分からないと言う事です。(^_^;)
その為?か ....現代のイスラエルでもヨベルの年(恩赦など)は行われていません。
分からないなりに、可能性のある一般的 ユダヤ暦からの次のヨベルの年の計算です。😅
次の安息年は、ユダヤ暦5783年だそうです。
ユダヤ暦5783年は 826回目の安息年になります。
5783÷7=826.14... (太陰暦でキチンと割り切れない?)
826÷7=118
5783÷49=118.020...
5783 は、49 の 118,...倍
826も、7 の 118倍ですので、次の安息年の翌年 ユダヤ暦5784年が
118回目のヨベルの年になります。
ユダヤ暦5784年は、西暦2023年ですが、
ユダヤ暦の新年は、前年の西暦2022年の9月後半から10月頭の新月から始まります。
ですので
西暦2022年(ユダヤ暦5783年)からヨベルの年は始まります。
2022年の秋頃から2023年の秋頃までが
次のヨベルの年になります。
月齢などの資料探しと、 計算が面倒なので現時点で正確な日付は出しません(^_^;)
もう一度言いますが、これが神様が決めた正しいヨベルの年と言う事では有りません。
ヨベルの年の預言的意味
過去の安息年が近付いた時には、一部の携挙を信望する人達の間で、携挙があるのではと騒がれ、それを信じた人の中には、保険を解約したり、貯蓄を全て献金してしまったが、返却してもらえなかった、などの様々な問題がクリスチャン社会で起こったと聞きます。
(信者だけで無く、導き手たる牧師が惑わされてしまった事も問題の一因でした)
オジさんは、例年の安息年には無い次の理由から、ヨベルの年はイエス様の再臨とその後の新天新地そして、福音の完成が示唆されていると考えています。
- 新しい年(時代)に入る喜びの日
- 全ての負債(罪)が恩赦される
- (罪の)奴隷からの解放
- 創造時の世界への回復
ヨベルの年の秋の例祭の預言的意味
ですから、ヨベルの年に入る際の 秋の祭り(主の例祭)には、例年とは異なる大きな預言的意味があると思っています。
それは、ヨベルの年とラッパの祭り(ヨーム・テルーアー)大贖罪日(ヨム・キプール)仮庵の祭り(スコット)がセットになった時の
福音の完成を示唆する預言的意味です。
再臨の際に吹かれるラッパ(マタイ24、1コリント15、1テサロニケ4) は、ヨベルの年の秋の祭りに吹かれるラッパの何れかでは無いだろうかと思っているオジさんですが.....
その〜、ヨベルの年や安息年に携挙や再臨があると考える事は、あまり褒められた事じゃ無いのですよね、、、何故って、それは父なる神様の領域だからです。
もし仮に再臨が次のヨベルの年だとするなら、患難期7年間の前携挙説では、2015年の安息年には携挙は既に終わっていなければいけません、(オジさんは後携挙説です。)ヨベルの年に携挙があるならば再臨にふさわしい『〇〇の年』がなくてはバランスが悪いですし...おすし...
そもそも49年周期のヨベルの年なんて、一生に一度か二度しか巡り合わない大イベントです。
この記事を書きながら、イエス様に『再臨の日や、携挙の日を特定する暇があれば、福音を宣べ伝える人になりなさい』と言われた気がしました。💦
イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。使徒 1:7~14
マタイの24章では、世の終わりに気を配る事の必要性を説かれましたが、『その日』は誰も知らないとも言われています。
その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。 マタイ24:36~37
ちなみに、ヨベルの年のひとつ前の安息年は42年なのです...
だからぁ〜詮索は止めなさい!
まとめ
先に書いた様に、正確なヨベルの年は分かりませんし、『その日』は、ヨベルの年の大贖罪日かも知れないし、ヨベルの年の仮庵の祭りの八日目かも知れません。
『その日』を個人的に追求されるのは、個人のワクワクの範囲でなら自由ですが、いくら確信があっても特定の日をソーシャルに発言するのはお勧め出来ません、もし啓示を受けたなんて言う人が現れたら十分に注意されて下さい。(どの口が言うねん?)
何より、イエス様に叱られます‼️
ヨベルの年を思う時、特定の1日に心奪われたりせずに、『その日』がいつ訪れても大丈夫な様に備え、イエス様の再臨、罪の赦し、神様との関係の回復が約束されている事を思い、希望と喜び、そして神様への感謝の気持ちを確認したいものです。
それが、神様の例祭の預言的意味に対する正しい姿勢のような気がします。
そして、福音(イエス様の十字架による罪の赦し、再臨、神様との関係の回復など)を述べ伝える人として、神様に用いられる人になりたいと願うオジさんです。
Marana tha マラナ・タ
御国が来ますように (マタイ6:10)
おまけ
「エリヤの日」と言う好きなワーシップソングが有ります、歌われている教会やタイトルから携挙を意識している様に思われますが、その歌詞の内容は、再臨に備え再臨を待ち望む歌です。「見よ来られる」であり「共にくる」ではありませんから。:
エリヤの日 (Days of Elijah) / THE CALLING x LIVE CHURCH WORSHIP
ざっくりと神様の人類救済計画