SNSで携挙について少し話題になったので、アドベント中ですが携挙の反証投稿です。
携挙って何?って方は、先ずはこちらの過去記事をお読み下さい。
ブログ主は、艱難期後携挙説の立場です。
空中再臨と言う言葉をご存知ですか?
艱難期後携挙説や『携挙の教え』否定派からの
「イエス様が天から2度降りてくる(再臨する)とは、聖書の何処にも書かれていない、携挙は終末に起こる再臨の時1度だけだ」
と言う意見に対して艱難期前携挙説は
「携挙の時は空中まで来られ(来臨)、空中まで信者を引き挙げ、共に天に戻られる」
(と第一テサロニケ4章に書かれている)だから
「地上に降りて来ていないので、携挙はカウントしない」
「だから、聖書の記述とは矛盾しない」
と答えます。
いわゆるノーカンってやつです。
これが、空中再臨と言うものです。
(空中携挙とも言う?:そもそも携挙は空中で起こる事なのだが...)
空中再臨=来臨 ≠ 再臨
前携挙説では、来臨と再臨を別の事と解釈しますが、後携挙説では再び来臨される事を再臨と解釈します。
今回は、空中再臨の根拠となってる聖書箇所1テサロニケ4章の『空中で主と出会う』の「出会う」と訳されているギリシャ語 ἀπάντησις (アパンテシス)を学ぶ事で、空中再臨は、正しいのか考えてみます。
1テサロニケ4:17
それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会う(ἀπάντησις)ために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
今回は空中再臨についてのみです。1テサロニケ4章に関しては、過去記事をお読み下さい。
ἀπάντησις (アパンテシス)は新約聖書中で1テサを含め4回登場します。
1テサでは「出会う」と訳されている ἀπάντησις (アパンテシス) ですが、他の箇所では「迎えに出る」(出迎える)等と訳されています。
マタイ 25: 1
「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出 ἀπάντησις て行く。
マタイ 25: 6
真夜中に『花婿だ。迎えに出 ἀπάντησις なさい』と叫ぶ声がした。
(艱難前携挙説では、この ἀπάντησις が今回の1テサと同じことを根拠に、マタイ 25も携挙の説明として語られています。)
2021 2月訂正 艱難前携挙説ではマタイ25は再臨の説明、携挙と関連づけて語られる事も多いが、 ἀπάντησις を理由にマタイ25章同様1テサロニケ4章も再臨の話だと考えられます。
使徒28:15
ローマからは、兄弟たちがわたしたちのことを聞き伝えて、アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに ἀπάντησις 来てくれた。
「迎えに出る」のですから、当然元いた場所に戻ることになります。
つまり、1テサの「出会う」は、元いた場所に戻ることの意味を含む「出会う」です。
と言う事は、艱難期前携挙説で言われてる様に、イエス様が天から来られて空中に留まり天に戻られる(空中再臨)と言う主張は、正しいのでしょうか?
どうやら違う様です。
ご紹介する聖書辞典によると、発掘された古い公文書から考えられるのは、ἀπάντησις (アパンテシス)は、偉い人(重要人物、大切な人)を公式に出迎える時に使用される言葉だ、と言う事です。これは他の聖書箇所(マタイ25,使徒28)にも合致します。
studylight.orgの聖書辞典では、ギリシャ語の8つの「会う」と言う単語の解説のB-2 アパンテシスの説明でアパンテシスについて
新しく到着した治安判事の古文書で使用されています。「この言葉の特別な考えは、新しく到着した高官の公式の歓迎だったようです」(Moulton、GreekTest。Gram。Vol。I、p.14)。
と書いています。
Bible Hubのコンコルダンスもἀπάντησιςの使用法として同様の説明をしています。
また、トリニティー神学校新約学教授DA・カーソンも、自著 New Bible Commentary(P1283)で次のように書いています。
The picture is that of a group of citizens going out from a city to meet a visiting dignitary and accompany him back. This implies that the Lord returns with his people to the earth.
この描写は、市民のグループ一が街から出て行き、訪問して高官に会い、彼を連れて戻るというものです。これは、主が、ご自分の民と共に、地上に戻ることを暗示している。
この聖書箇所で、数あるギリシャ語の「会う」と言う単語の中からアパンテシスが用いられていることには、それなりの意味があると思われます。
艱難後携挙説では、1テサをイエス様を王として迎える再臨の時として解釈していますが、これでは艱難前携挙説は、イエス様は私たちに仕える者 として迎えに来る事に、なってしまいます。
(マタイ25で考えたら、イエス様が花嫁の立場になってしまいます。)
『公式』ですから艱難前携挙説で言われる秘密裏の携挙でも無いでしょう。
(秘密携挙:一般の人には知られずに 携挙される。気付いた時には携挙は既に終わっている)
つまり この ἀπάντησις (アパンテシス) から、1テサロニケの記事は、
イエス様が天から来られて空中に留まり天に戻られる事(空中再臨)とは言えず、1テサロニケを携挙の事だと断言する事は出来ないと言う事になります。
むしろ私達が、イエス様(主)を
王様として 天に迎えに行き、主と出会い、共に地上に戻ってくる(再臨だ!)と読む方がオジさんは合点が行くのです。
※ 聖書引用は、特別明記していない場合は「新共同訳」を使用しています。
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諸人こぞりて 迎えまつれ🎶
— およげ 🐟 おじさん (@ChriOji) December 1, 2020
久しく待ちにし 主はきませり✨
主はきませり 主は 主はきませり🎵
賛美歌「諸人こぞりて」の歌詞に、初臨と共に再臨の日の光景を見ます。
この時期に教会では、御降誕と共に終末の事も語られます。
それは、恐ろしい患難ではなく、その先にある希望のメッセージです🥰
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