今回は、皆さん大好きな?献金のお話しです。(長くなる予感が....)
什一返金と、返金と言う言葉に拘る人もいますが、その辺の話は横に置いときます。
オジさんの、献金についての基本的考えは過去記事をお読み下さい。
什一(ジュウイチ)
①一割。一〇(パーセント)。一〇分の一のこと。 ②土地にかける税
什一献金 毎月、収入の10分の一を捧げる献金 もともとは祭司達に祀りごとに集中して貰うために人々が収穫の10分の一を捧げていた事に由来する。
月定献金 収入の10分の一ではないが毎月定期的に行う献金、什一献金を行ってない教会での月一回の、まとまった額の献金 (金額を自己申告させる教会もある。)
(過去記事より)
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検索サイトから、この記事を読まれている方の多くは、恐らく什一献金に何かしらの疑問をお持ちの方だと思います。
この記事は、一信徒の献金の姿勢と什一献金に対する考え方を書いたものです。
什一献金は正しいの?
什一献金を、信者の責務として勧めている教団や教会もあれば、そうではない教団や教会もあります。
什一献金を勧めている場合、献金によって祝福されると言う『繁栄の神学』の悪影響を受けている場合と、単に聖書に書かれている(と解釈する)から行うべきだと考えている場合があります。
どちらの場合でも、カルト化している教会や異端的な教会もあれば、真っ当な教会(但し主観による)もありますので、どれが正しいと言い切ってしまうのは如何なものかと...オジさんは考えます。
什一献金では無く、月定献金でもカルト化する事は、じゅうぶん有り得ます。
結論のひとつを先に言いますと、こと献金の話しに限らず、何が正解と言い切れない場合、耐えられない程に納得のいかない教えが有るならば、教会や群に余計な混乱を与えるのでは無く、教会を変わる事(身を引く事)が最善では無いかと思うオジさんです。
さてこの話題、什一献金の是非を語る人が、牧師なのか信者なのか、生活に余裕の有る人か、そうでない人か、立場によって話の印象や説得力が変わって来ると思います。
オジさんは、生活に余裕のない一信徒です。
この記事では、オジさんなりの考えを述べますので、わずかでも皆さんの考えの参考になれば幸いです。多様な考えを聞き、皆さんは皆さんなりの答えを導き出して下さい。
そもそも什一
旧約聖書には『十分の一を捧げた / 納めた』と、たくさん書かれていますが、それは必ずしも神様に対してではありません、身内や王、祭司など人間に対して捧げている場合も多く見られます。
イエス様の時代、新約聖書の時代で言えば、収入の十分の一を(国や共同体に)納めるという仕組み自体は珍しものではありませんでした。
十分の一の仕組みは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスの『経済学』や儒教の思想『孟子』にも書かれているそうで、必ずしもユダヤ人独特のものではなく、大昔から古代地中海地域や、古代中国などでも行われていた一般的な風習の様です。
但し、十分の一の奉納物は律法にも記されている神様の命令です。
あなたは、毎年、畑に種を蒔いて得る収穫物の中から、必ず十分の一を取り分けねばならない。
申命記14:22
でもイエス様の教えには、十分の一の奉納物の命令はありません。どちらかと言うと捧げる姿勢(心)に注目されています。
ですが、『十分の一の献げ物もないがしろにしてはならない』とイエス様は、律法を否定もされていません。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。... マタイ23:23
(このイエス様の教えはユダヤ人だけに関係すると考える人達もいますが、オジさんは違います。)
什一献金の是非の争点
マタイ23章は、律法学者とファリサイ派への戒め?
私たちは、イエス様の『新しい契約』に従えば良い?
イエス様は、什一に拘るのでは無く、気持ちが大切と教えられている。
什一献金は現代には関係ないのか有るのか?
律法は過去のものなのか?
什一献金は異邦人には関係ないのか?
律法はユダヤ人だけのものなのか?
什一献金は、祝福への応答?
什一献金は、神が定めた教会(エクレシア)を支える制度
什一献金の強要は、カルト化のしるし?
什一献金の強要で、躓いた信者がいる。
レプタ銅貨2枚を捧げた女 マルコ12章
献金を誤魔化すのは万死に値する?(アナニヤとサッピラ)使徒5章
他にも色々ありそうですが....
皆さんは、それぞれの問いにどう答えますか?
どう答えるかによって、自ずと答えは見えて来るかも知れません。
繁栄の神学と什一献金
人間は神様を騙す事ができるのでしょうか?
人間は神様のものを盗んでいるのでしょうか?
人間には神様を試す事が許されるのでしょうか?
マラキ書3章の聖書箇所の解釈から、『什一献金をしない事は神様のものを盗む事だ』と恐怖心(畏怖の思い?)を起こし『献金だけは神様を試しても良い』『正しく什一献金を行えば祝福される』『証しの為にも祝福されていなければいけない』『献金に見返りを期待する事は悪くない』と言った、御利益宗教的な教えがあります。これらは『繁栄の神学』と呼ばれる教えの一部で、カルト化の一因として問題視される事のある教えです。
メガチャーチブーム(教会成長運動)や、日本ではバブル好景気の際に多くの教会に取り入れられ、その名残は、わずかながらも今日も残っています。
什一献金を勧める教会は、大なり小なりに、この『繁栄の神学』の影響を受けている教会の可能性があります。(全ての教会ではありませんので、他の教えの内容と合わせて吟味する必要があります。)
『繁栄の神学』は集金能力が高いために、一見、教会は勢いがあり繁栄している様に見えますが、その実、信徒の一部(多く?)は、無理な献金への疲れがあると言う、繁栄と無縁な教会になっている場合もあります。
(『繁栄の神学』の是非は、ご自身でご判断下さい。)
オジさんも過去に『繁栄の神学』の影響を受けた教会に、なんの疑問も持たずに居た事があります。
感謝な事に、献金疲れにはなりませんでしたが、取り分けて特別な繁栄が有ったと言う実感はありませんでした。もちろん充分な?祝福はありましたよ。
(『繁栄の神学』の誤りに気づいたのは、その教会を去ったすっと後の事でした。)
穏やかに?『繁栄の神学』の影響を受けながらも上手く機能している教会も有ります。
ですので、『繁栄の神学』の影響を受けた教会に居ても、クリスチャンはクリスチャンです。と付け加えさせて下さい。(導く側の責任は大きいと思いますが...)
経済的祝福に限って言えば、『繁栄の神学』の影響を受けた教会を去った後の方が、ある様な気が致します。
また多くの什一献金の祝福の証しを聞いてきましたが、その証しには?と感じるものもあれば、本当に神様を賛美したくなる様な、素晴らしい証しもありました。
但し、その祝福は、献金によるモノなのか?みこころと、その方の(熱意の)祈りによるのでは?と現在では思うのですが...。
什一献金 律法と新約
一方『繁栄の神学』に関係なく、単に聖書に書かれているから什一献金はするべきだと考える教会もあります。
さて、律法は現代の私達にも関係すると考えるオジさん(詳しくは律法のカテゴリーを)は、どう考えるのでしょうか?
確かに、律法で十分の一の献げものは命じられています。なら守らねば?
イエスさまも『十分の一の献げ物もないがしろにしてはならない』と言われていますが、この箇所(マタイ23章)は『律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにしている』なら十分の一の捧げものは意味が無いというお話です。
2枚のレプタ銅貨を捧げた女性(マルコ12章)は、その場の誰より少額の献金でしたが、収入の割合からすれば、その場の誰よりも高い割合の献金でした。(おそらく)
(間違っても献金は割合が重要と言う教えを導き出さないで下さいね。w)
また過去記事にも書いた様に、信者の献金は、初代教会時代からクリスチャンの集合体である教会(エクレシア)を支える制度として機能してきました。
オジさんは、こう考えます。
『律法』は、現在でも有効で、全ての人に適用される。と...
イエス様は、愛を持って寛容な心で神様の義である『律法』を読み解く様に勧められました。
イエス様が『ないがしろにしてはいけない』と言われたのは『十分の一』でしょうか『献げ物』でしょうか?
オジさんは、この申命記14章の『十分の一』ではなく『献げ物』に注視したいと思います。
つまり
『什一献金』は、神様の命令である
『献げ物』は、神様の命令である(守るべき事)
『献げ物』は、祝福への応答である(神への感謝)
『献げ物』は、礼拝である(祝福への応答)
『献げ物』は、『十分の一』以上でも良い(割合は関係ない)
『献げ物』は、神が定めてくれた、教会(エクレシア)を支える制度と言える
『 正義、慈悲、誠実をないがしろにしている』なら『献げ物』も『十分の一』も意味が無い。
つまり、こういう事です。
わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。 Ⅱコリント9;6,7 口語訳
このⅡコリント9章、什一献金を否定する際に用いられる事が多いのですが、この箇所は、什一とは無関係の話です。『献げ物』への姿勢の話ですから、自ら什一と決めたのであれば、それで良いのです。強制されてするのは違うという事ですから、人に『勧める』と言う名目での強制をしてもいけません。
と言うわけで、最初に申し上げた結論になるのですが....
もし、あなたが今、十分の一の献金に苦しみ、イエス様から離れようとされているのなら、その教会から離れる事をお勧め致します。
大事なのは『十分の一』ではなく喜んで『献げる事』だと思うオジさんです。
余談とまとめ 『献げる賜物』の話
ある姉妹との会話
姉妹『宝くじが当たれば、もっと沢山献金出来るのになぁ。』
オジ『いやいや、そう思っているうちは当たらないよw、沢山献金出来る人に当たります様に!ww』お祈りのポーズ
(注:それなりの関係性が有っての会話です。)
周りのクリスチャンを見ていると、経済的に祝福されている方には、『自然体で喜んで献げる事が出来る』人が多い様な気が致します。
経済的に祝福されているから、心起きなく献げられるのか?
心起きなく献げるから、経済的に祝福されてるのか?
多くの裕福な人達はクリスチャンでは無い人達です。
(クリスチャン人口が少ないから当然ですが)
ですから、クリスチャンだから経済的に祝福されてなければならない、とは言えないでしょう。そんな事言ったら、経済的に祝福されて無い人はクリスチャンでは無い!となりかねません。(信仰が足りないと言う話は、有りましたが...)
もしかすると、経済的に祝福されているクリスチャンは、惜しまず施しが出来たり、慈善が苦にならない様な、『献げる賜物』がある人なのかも知れません。
神様は、『自然体で喜んで献げる事が出来る』人に、祝福を与えられているのかも知れません。
幸せのおすそ分けが当たり前に出来る人ってイメージかな。
あながち、献金すると祝福が.....と言うのも、場合によっては間違いとは言い切れないのかも知れませんね。
わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、 勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。
ローマ12:6~8
(施しをする人、慈善を行う人 は『献げる賜物』がある人と言えるかと思います。)
また、クリスチャンが神様に一層の祝福や繁栄を願う事は、悪い事でも間違いでも無いとオジさんは考えます。が、それぞれ場合や事情による事であり、型にはめた教えやムーブメント、教理にしてしまう事には疑問を感じます。
祝福を与えるかどうかを決める主権は、いつも神様の側にあります、〇〇するなら祝福されると言うのは如何なものでしょう。
そして『 正義、慈悲、誠実』など先にしなければいけない事がある事を、忘れてはいけないと考えます。(マタイ23)
什一献金しても祝福が無いのは、祝福を期待している その 性根(しょうね)に問題があるのでは?と言う話が出たこともありました....w
いや『什一献金したら祝福される』と言われたら、期待(意識)しちゃうでしょ!期待するなって方が無理な話です。
どうやらオジさんには自然体で『献げる賜物』は無いようです。W
と言うわけで、いま与えられている祝福への感謝の証しとして献げ物をしようと思うオジさんです。
論語に『過ぎたるは猶及ばざるが如し』と言うのがありますが、神様の恵みは、(神様目線では)私たちに充分なのかも知れません。
お金だけではなく奉仕や伝道も、神様に対しての立派な『献げ物』だと、オジさんは思います。
皆さんも、こうしようと自分で心に決めたとおりの『献げ物』をされてください。
喜んで与える人を神は愛してくださるからです。
読者の皆さまに、一層の主からの祝福があります様に。
栄光在主
思った通り、長い記事になってしまいました。人によっては『ご都合主義な考えだ』と思われたかも知れませんが、最後までお付き合い下さり感謝致します。
特別に明記なき場合、聖書引用は新共同訳を使用しています。
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自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。マタイ6:25,26
わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。Ⅱコリント12;7~