携挙って何?って方は、先に過去記事を読んで頂ければ幸いです。
新約聖書に、テサロニケの信徒への手紙(一)(二)と言う使徒パウロが書いた2通の手紙があります。
艱難前携挙説では、この手紙の 1テサロニケは携挙 2テサロニケは再臨の事が書かれていると言われています。
しかしパウロが、「携挙って知ってる?」や「これは携挙の説明、こっちは再臨の説明ですよ」と書いた箇所を聖書に見つける事は出来ません。
そもそも、携挙と言う単語は、聖書には登場し無いのです。
オジさんはテサロニケ宛の1度目の手紙での「主の日」の件、つまり終末の出来事を2度目の手紙でより詳しく、もしくは補足説明しているのでは無いかと思っています。
(これも聖書には書かれていませんが、わざわざ書く必要の無い事だからと言えます。)
今回はその理由を聖書からご説明したいと思います。
まず、パウロは最初の手紙1テサロニケ4章で「『主の言葉に基づいて』次のことを伝えます。」と書いています。
1テサロニケ4:15~17
主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。
すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパ(σάλπιγξ)が鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
『主の言葉に基づいて』とあるので、パウロは独自の解釈でこの箇所を書いたのではなく、『主』イエス様が語った言葉に基づいて書いてる筈です。
「主の言葉」とは何か探して見ると。艱難前携挙説の方が「ダニエル70週の預言」を根拠に携挙の事が書かれていると主張しているマタイ24章のオリーブ山の説教の事だと思われます。
「ダニエル70週の預言」の説明記事はコチラ
ですが、このマタイ24章のオリーブ山の説教は、艱難前携挙説の方が再臨の事だと言っている 2テサロニケとも非常に共通点が多いのです。
文字数が多くなるので、聖書箇所は載せませんが、ご自身の学びの為にも是非聖書を開いてご確認下さい。
イエス様の言葉 と パウロの終末理解の共通点
惑わしがある
マタイ24:5/2テサ2:2~3
偽キリスト、不法の人
マタイ24:5、11、24 /2テサ2:6~11
愛が冷える、背教がある
マタイ24:12 /2テサ2:3
反キリストが神殿へ
マタイ24:15 /2テサ2:4
苦難、苦しみ
マタイ24:21~22/2テサ1:6~10
来臨、天使、雲、ラッパ
マタイ24:30~31 /1テサ4:16~17
来臨
マタイ24:30~31 /2テサ2:8
信者を集める(携挙?来臨)
マタイ24:31 /1テサ4:17、2テサ2:1
思い掛けない時
マタイ24:36、42、44、50 /1テサ5:1~4
目を覚ましていなさい
マタイ24:42~25:13 /1テサ5:6~8
マタイ24章は、イエス様による継続した終末の話ですので、パウロの1テサ、2テサは、どちらも同じ件について書かれたものだろうと考えられます。
つまりパウロの終末論はマタイ24章の『主の言葉に基づいて』成り立っており、 1テサは携挙 2テサは再臨と言った別の教えと言った解釈は、マタイ24章のイエス様の言葉に基づくならば導き出されない筈だと言えます。
(パウロはイエス様から、直接オリーブ山の説教は聞いていません、おそらくペテロ達、マタイや他の弟子達から学んだだろうと言う憶測です。)
イエス様のラッパとパウロのラッパ
また、パウロがテサロニケ宛ての手紙を、マタイ24章に基づいて書いたと言える根拠に、 1テサロニケの 4章16節に登場するギリシャ語の単語『ラッパ=サルピンク(σάλπιγξ) 』をあげる事が出来ます。σάλπιγξ は、パウロの書いた手紙の1テサロニケ4:16と1コリント15:52で使われていますが、福音書ではマタイ24:31だけにしか登場しないようです。
このことからも、パウロは、マタイ24:31の『イエス様の言葉に基づいて』、1テサロニケ4:16~17を書いたのでは無いだろうか、と考える事が出来ます。
1テサロニケ4:16
すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパ(σάλπιγξ)が鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、
マタイ24:29~31
その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。
そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。
人の子は、大きなラッパ(σάλπιγξ) の音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。
1コリント15:52
最後のラッパ(σάλπιγξ)が鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
マタイ24には2つの事が書かれている?
艱難前携挙説の方は、 1テサは携挙 2テサは再臨とする為に、マタイ24章のイエス様の話を
「そのことはいつ起こるのですか。」と
「あなたが来られて世の終わるとき」の
2つの別な時の事として解釈します。
その結果、話の流れ(文脈)を無視して「ここは携挙、ここは再臨」「ここは患難期の前半。ここは後半」と「自身の判断」によって分けて読まれますが、イエス様はその件に付いては何も言及されていません。
何故でしょうか?
それは、そもそもひとつの事についてしか話されていないからでは無いでしょうか?
パウロの2つの手紙を基にマタイ24章を読むのではなく、マタイ24章の『主の言葉に基づいて』パウロの書いた2つの手紙を理解するべきです。
4/ 2021 補足
他の共観福音書の著者たちは、同じイエス様の話を、「世界の終わり」と言うひとつの出来事として捉えている様に読めます。是非ご自身で聖書を開き、確認されて下さい。
補足ここまで
マタイ24:3,4
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」 イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。
24章全体の文脈を考えながら読むときに、イエス様は2つの別の事を話されているのではなく、終末と言うひとつの事を話されているとオジさんは思うのですが...
意図的に読めば、色んな読み方が出来てしまうのも聖書の面白いところです。
願わくば、テサロニケの信徒宛の手紙の基になったであろう、イエス様の話(マタイ24章)を「終末の頃に起こる全ての事」と言ったひとつの大きな視点で意図的に読んでみて頂きたいと思う、患難期後携挙説を支持するオジさんです。
最後に
オジさんより遥かに学のある方達によって、キリスト教史の中で色んな終末論が論じられて来ました。高卒のオジさんに、これが正しいと言い切る事は、どだい無理な話でございます。
ですが、「終末が近いからキリスト教を信じなさい」「この終末論を信じられないクリスチャンは、本当は救われていない偽(又は、未熟な)クリスチャンだ」と言った教えには異議を唱えたいと思います。
どの終末論の立場に立つかは、キリスト教の救いとは直接的な関係はありません。
そう言う点に置いて聖書は、教える立場の人に厳しい責任を求めていますが、それはまた別の機会に...
オジさんも、「こう思います」と、言い訳部分を残しながらも、神様の御前で申し開きする覚悟持って自論を書かせて頂いております。
こんなブログや、人の解釈による神学に左右される事なく、聖書の中に答えを求めて行ってください。
..............ン?
なコト言ったら元も子もないので、このブログも色んな神学も参考程度にはしてくださいネ!💦
以上!これからもお付き合い下さい。w
患難前携挙説の聖書教師が語る福音メッセージで、脈絡なく登場する
— 迷えるおじさん (@ChriOji) May 25, 2020
「この時、私たちは携挙されているから大丈夫!」は、
殆どの場合
「こんな時でも、主が共に居られるので耐える事が出来るのです。」
に置き換えても違和感が無い。