オジさんは、小学生高学年の頃に異言の賜物と言う神様からのギフトを受け取りました。
ところで皆さんは、この異言(いげん)と言う教会用語を聞いた事がありますか?
異言とは、主にペンテコステ派、聖霊派、カリスマ派と呼ばれる教派の教えの中にある、救われた人に与えられる、神様からの賜物(ギフト)の一つと言われています。(第三の波と言うムーブメントの影響を受けた、一部の福音派でも認めている教会がある様です)
クリスチャンの中でも教派によっては、異言について全く知らない方もいらっしゃいます。ご自分の所属する教派しか知らない為に、信徒レベルでは「異言の教えは異端的だ。」「異言の教えがなければ良い教会ではない。」と互いに主張し合う事もありますが、あくまでも一部の教派での教えだとご理解してください。
異言の教えが主流だと思ってしまいがちなのは、この教えを取り扱う教会が、比較的に勢いが有り活動の盛んな教会、あえて悪い言い方をすれば、一部の声が大きい教会だからかも知れません。
異言とは簡単に言うと、よく分からん超自然的言葉で祈る事です。(オジさん流説明)
異言とは、舌から発せられる声あるいは異国の言語(聞き慣れない言葉)を話すことで、いずれも、学んだことのない外国語もしくは意味不明の複雑な言語を操ることができる超自然的な言語知識、およびその現象を指す。異言 - Wikipedia
この超自然的な言語による祈りは、普通の祈りと違った特別な祈りというのが異言の教えです。
ある時、クリスチャン歴は長いけれど異言の賜物が与えられていないと悩んでいる信徒さんの為に、出来るだけ正しい教えで励まし力になりたいと思い、異言についての学びを始めました。子供の頃から当たり前のように受け入れていた為、薄っぺらい説得力の無い知識しか無かったからです。
それから暫くして、
異言で祈るのをやめました・・・・
今回は、異言に対して疑問を持った理由の聖書以外の部分をお話します。
聖書に基づいての理由は、後日改めて記事にします。
圧力により販売中止となった本
異言の教えは、それに疑問を持つ意見の言論の自由を奪う形で、日本に定着しました。
「コンサーバティブ・バプチスト神学校」新約学教授ドナルド・W・バーディック博士著 舟喜晃子訳
『異言~聖書の教えと現代の異言』(いのちのことば社・昭和51年4月発行)
この本は、異言の教えのムーブメントに警鐘を鳴らす内容でしたが、本が出版されると、日本のペンテコステ系諸派が、出版抑圧に乗り出したそうです。
ペンテコステ派の最大手 日本アッセンブリー教団(菊池隆之助総理・当時)は、いのちのことば社に「この本の異言解釈は間違いであり、このような書籍が超教派、福音主義を標榜する、いのちのことば社から出されることは問題である」との抗議文をつきつけました。結果、いのちのことば社は同年11月24付で同書の出版・販売を停止する旨を、同教団に回答。『異言~聖書の教えと現代の異言』は販売中止となりました。(キリスト新聞 昭和51年12月11日付)
異言は、異教の信仰に多く見られる
世界のいろんな地域の宗教で、未知の言葉で祈る例は見られるそうです。
スーダンのシャーマン、アフリカ西海岸のシャンゴ(カルト)エチオピアのゾル(カルト)ハイチのブードゥー教、南アメリカやオーストラリアのアボリジニ達も含め、世界中の異教徒的宗教は異言(未知の言葉での祈り)を好む傾向にあります。
意味不明の奇妙な言語を唱える事が何か霊的に深い意味があると、古代から畏れられていた為でしょう。キリスト教以外の宗教でも異言を語ることがあるので、異教の神の霊で異言を語っている可能性も否定は出来ないでしょう。
リンク先の動画は、聖霊運動に対し、かなり否定的感情をお持ちの方が作られた、一部では知られた動画です。見られる場合は、正しい判断が出来るように祈り、心を備えてからご覧ください。
youtube 一部の教派で持て囃され良しとされていたムーブメント
ちなみに聖書の中で、聖霊体験をした人は皆んな地面に屈服したり、ひれ伏したりと前に倒れています。この動画を見た時に、過去に異言の練習で、とりあえず「バラバラバラ」と唱えていたのが、その祈りが自分の意志と反して、もし「バラバを救えー」と言う意味の祈りだったとしたら、どうしようかと不安になりました。
聖書の異言は外国の言葉です
聖書で異言に言及している箇所は、「異言の教え」が出るまでは普通に外国語の事として読まれていました、「異言の教え」が出ると、一部の箇所は「未知の言語」と考えられる。と言われるようになりました。(詳しくは次回触れます)いずれにせよ、意図的に読み取らなければ「未知の言語」の「異言の教え」は成り立ちません。
教会の抱える矛盾
日本アッセンブリー教団では、1990年に教団総会で採択された「基本的真理に関する宣言 日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信仰規準」の中で異言は聖霊のバプテスマの証拠であると宣言しています。
信者が受ける聖霊のバプテスマは、神の御霊が語らせるままに異言を語るという、肉体的な最初のしるしによって証明される(使徒2:4)。
この場合において異言を語ることは、異言の賜物(Iコリント12:4-10,28)と本質的に同じであるが、その目的と用法において異なっている。
ここでの聖霊のバプテスマとは、聖霊の満たし(浸される)事だと思うのですが、もし救いを受けた時の聖霊の内住を表すのであれば、異言は救われている証拠となり、異言が与えられていなければ、本当は救われていないとなってしまいます、救われる条件に異言が含まれ、一般的な聖書理解「救いは信仰のみ」との矛盾が生じます。最近は分かりませんが、アッセンブリーに限らず、昔は異言を「救われている証拠」とする教会もあったようです。その名残を今でも異言の重要性を強調する人達の中に垣間見ます。
異言の祈りは聖霊の導きによるので正しい祈りが出来るとされます。
「異言の教え」が正しいとして、それが異教徒の異言と違う本物の異言だと誰が判別するのでしょうか?判別する霊的指導者とシャーマン等との違いは?霊の違いだとすれば、それが聖霊によるのか悪霊によるのかを判断するのは誰なのでしょうか?
実際に、「あなたの異言は偽物だ」と言われた経験のある方もいらっしゃいます。
オジさんに対しても、止めることの出来る異言なら「本当は、本物の異言は与えられていなかったんだろうなぁ」と憐れむ方もいらっしゃるでしょう。
オジさん自身の過去体験ですが「異言の祈り」で霊的幸福感を感じた時に自分の異言は本物だと自信を持ちました。当時の先生方からも本物の異言とのお墨付きも頂きました。異言で長時間祈った事もあります「異言の祈り」で祈りが聞かれた経験もしました。
それでも「あなたの異言は偽物だ」と判別される方はいらっしゃるでしょうけど。
今のところオジさんは、異言とは「聖霊に与えられた宣教の為の外国語」と理解するべきだと考えています。間違えてはいけないのは、現代でも、神様は宣教の為に、異言を与える事が出来るお方であると言うことです。
残念ながら、宣教の為に、異言を与えられた事例は大変珍しいですが、その様な証を読んだ記憶が有るので全く無い話では無いようです。
現実には、ペンテコステ 運動の初期、宣教の為の外国語の異言で伝道しようと1906年にアメリカから 18人のペンテコステ派の宣教師が東洋(日本・中国・インド)に遣わされましたが、全て失敗で終わったそうです。現在でも宣教師を目指す為には語学力は必要で、言語学校に行く必要があります。
まとめ
異言で祈ったからと言って、神様がその祈りを特別扱いされる事はない筈です。少なくともオジさんの思う神様のイメージにはありません。
オジさんは自分の経験から、異言の賜物を全否定する事は出来ません、ただ疑問を持ちながら用いるよりも、今は確実な祈り「自分の言葉」で、「自分の思い」を確認しつつ聖霊に導かれながら「祈りの言葉」を、神様の御前に捧げたいと思っているのです。
願わくば、こんなオジさんの為に、皆さんのお立場からお祈り頂ければ幸いです。
以上、威厳のないオジさんがお送りした異言のお話でした。
次回は、聖書に書かれている事を確認しながら異言について書いてみます。
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